休診のお知らせについて 【院長】 2024/04/22
 ホームページのインフォメーション欄でお知らせしました休業について少し詳しくご説明致します。
 今回の休業で患者さんからは私の健康を心配して下さる方が多数いらっしゃいました。幸いなことに現在の健康状態は特に問題を抱えているわけではございません。休診に至った理由はスタッフの方々の”おめでた“が続くため医院の運営を維持できなくなってしまった事です。新しいスタッフをそろえれば済むことではないかと考えましたが、実際にはそう簡単にこれまでの仕事を新しいスタッフに任せられないと判断しました。簡単な決断ではありませんでしたが、きっぱり休業という選択を行なったわけです。
 せっかく休業するわけですから有効に時間を使うつもりです。これまで出来なかったことにチャレンジするつもりです。これまで続けてきた”ひとの話“は続けるつもりです。休業中であっても、時々、近況報告をしたいと思っております。また、再開の予定がたちましたら1-2ヶ月前にお知らせしたいと思っております。

  ひとの話 その4 【院長】 2023/11/20
 前回はヒトとひと(人あるいは人間)の定義について触れました。また、古代人の骨からDNAを抽出して増幅・解析し、比較することでひとの起源・進化を調べる方法についても少しだけ紹介しました。おそらくこの方法が今後のひとの起源・進化の研究を支えることと思います。念のため、現在のヒトの分類は、動物界、せきつい動物門、ほ乳綱、霊長目、ヒト科、ヒト属(ホモ)、ヒト(ホモ・サピエンス)となります。
 DNA解析の方法とは別に、個人的な意見ですが、ひとの起源・進化の過程をもっと身近に視る方法があるように思います。それは母体の中で起こるヒトの胎児の発生過程です。具体的にはヒトの発生学 (Embryology)です。ヒトの発生学とは人間の発生過程を学ぶ学問分野です。中学校や高校の生物でも学びますが、本格的なヒトの発生学は医学部で学ぶのではないでしょうか。ヒトの受精卵が細胞分裂を繰り返しながら次第に人間の赤子へと進む過程は驚異としか言い様がありません。胎児は虫類や鳥類の姿に見えたりするので、途中の過程の姿を見ただけでは約10ヶ月後に現れる人間を想像することは難しいでしょう。現在はゲノム科学と結びついて発生学は、発生過程の遺伝子発現の解明や先天異常の予知、成人してから起きる疾患の解明など踏まえた学問として発展しています。
 今、このブログで考えているヒトの起源・進化は、既にヒト属になった原人(ここではヒト属に属するがサピエンスではない)から現在のヒト(ホモ・サピエンス)への進化ですので、ヒトの胎児の発生過程は意味してはいません。しかし、ヒトが地球上に誕生するまでの長い時間を考えると、約10ヶ月の妊娠期間に観察できる胎児の発生過程はとても重要と思われます。本題に戻り、原人から現在のヒトへの進化を考えます。
 現時点で、ヒトの起源・進化を考える上で最も気になる存在はネアンデルタール人(ホモ・ネアンデルタ―レンシス)です。前回のひとの話(3)でも触れましたが、約4万年前あるいは7万年まで生存したネアンデルタール人です。なぜネアンデルタール人が気になるのでしょうか。それは我々がネアンデルタール人の遺伝子を保持していることとその遺伝子の特質が気になるからです。ではその特質とはどういうものでしょうか。哲学的で個性的な人の誕生との関連が気になります。
 次回のひとの話しその5で考察したいと思います。
 参考文献として
 “Neanderthal Man” ed by Svante Pӓӓbo (2014) BASIC BOOKS

  ひとの話 その3 【院長】 2023/09/09
 今回はひとの起源・進化について、ほんの入り口のお話しです。実はこのテーマは2022年の初頭に思いつきました。偶然(?)にも2022年10月のノーベル生理学・医学賞の発表はなんとひとの起源・進化についての研究業績に対してでした。受賞者はスウェーデンのスバンテ・ペーボ博士*です。「絶滅したヒト科のゲノムと人類の進化に関する発見」により大きな貢献をしたことが受賞理由です。絶滅した人類(約4万年前に生存したネアンデルタール人)の骨に残っていた遺伝情報を解析する技術を確立し、現代の人類(ホモ・サピエンス)と比較しました。その結果、ホモ・サピエンスはネアンデルタール人の遺伝情報の一部を受け継いでいることなどを見いだしました。最近(2022年2月)出版された篠田謙一著「人類の起源 古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」」(中公新書)は人類の起源、さらには進化を理解するための名著だと思います。ぜひ一読をお勧めします。ひとの起源・進化への関心が高まっていることの証だと思います。
 ひとの起源・進化を考えるにあたって、基本的な言葉の使い方を説明します。日本人類学会では人類学普及委員会を立ち上げ人類学の普及に力を入れています。例えば、小学校理科教育のための人類学知識の参考資料によればヒトと標記した場合には生物種としての我々の種(ホモ・サピエンスという学名)を指します。これは一般的にも認識されていることと思います。また、「人類」という用語は大昔のヒトの祖先から現在のヒトまでを集団としてとらえた概念として記載されています。篠田氏によれば先の書のなかで「人類」は、多様な動物の総称だということを意識しておいてください、と述べています。よく知られていることですが、人類の特徴は直立して二本足で歩くというユニークな移動様式にある、とされています。ではヒトとひと(人あるいは人間)の違いはどのように考えたらよいのでしょうか。「ヒトと人のあいだ」野家啓一著(シリーズ ヒトの科学 (6) 岩波書店 2007年)によれば、ひと(人あるいは人間)とは哲学的に定義される人間、と書かれています。従って、「ひとの話」では対象は生物種としてのヒトではなく、人あるいは人間ということになります。人間が対象となるとテーマが広いですね。そこで「ひとの話」では、完全に生物種としてのヒトではなく、ヒトを背景とした哲学的な人を意識して話を進めて行きたいと思います。つまり、ひとの起源・進化や生物学的な人の知識に基づいて哲学的な人を考えたいと思います。ひとの起源・進化については先の著書で深めて下さい。
 今回はひとの起源・進化について、ほんの入り口のお話しでした。
 次回は哲学的で個性的な人の誕生について考察してみたいと思います。

*スバンテ・ペーボ博士
ペーボ教授は、人類の祖先であるホモ・サピエンスと共存していた絶滅種ネアンデルタール人のDNA配列の解読に初めて成功し、後に全ゲノムの解読に成功しました。 また、2008年にシベリアの洞窟で発見された古代人の指の骨のDNAから、これまで知られていなかった絶滅したヒト科の一種「デニソワ人」を特定し、人類の歴史に大きな影響を与えました。
さらに近年では、7万年前に絶滅したネアンデルタール人とデニソワ人の祖先が交配し、現在の人類集団の一部にネアンデルタール人とデニソワ人の遺伝子が見いだされるという画期的な発見をしました。

  新しい変化  【スタッフ】 2023/04/03
 桜の花びらが舞い、それぞれの門出に彩を添えていますね。ちょうど当院の近況もお伝えしたいと思っていたところで、これもまた医院の門出でしょうか。
 まずは4月からの診療時間変更についてです。火曜日と金曜日の午後が休診に変わります。定期通院されている方にはあらかじめご案内していましたが、「何か新しいことをされるのですか」という声をよくいただきました。そのように前向きにとらえていただけると幸いです。これまでの受診傾向から外来時間を集約し、外部業務や別の取り組みをするための時間を設けたいと保坂先生はお考えのようです。私は私で働き方改革としてとらえて再発進しようと考えています。
 次にマイナ保険証の対応についてです。当院でもマイナンバーカードを健康保険証として使えるように、オンライン資格確認システムを導入いたしました。3月より開始しており受付カウンターに設置してあるカードリーダーからご利用ください。情報利用に同意された場合、受診歴、薬剤情報、特定健診情報など診療に必要な情報を確認したします。なお、引き続きこれまでの健康保険証のご提示でも変わらずに受診できます。ご希望される方のどちらでも構いません。この導入に伴い、当院で少しだけ助かっていることは健康保険証が現在有効なものか受付段階でわかるようになったことですかね。ここだけの話、これまでに転職などで無効になっているケースがあり医療費の請求に支障が出たことがありました。窓口では自己負担額(3割など)をお支払いいただきますが、その後に月ごとに残りの差額を請求する業務があります。健康保険証が無効であると請求先から支払いができないと通知がきます。請求をした後に無効だったのだと判明していたのです。その後の手続きが煩雑になることはご想像にお任せします。受診の際に毎月の提示を促し確認するのはこれを防ぐためでもあります。今後は受付段階で健康保険証が使えませんよと言われるケースが出てくると思います。
 この様に体制を改変したり最新システムになんとかついていったりと、より良い診療を続けていくために舵を切っているところです。花粉シーズンも峠を超えてきたところで慌ただしさも落ち着きつつあるので、あくせくせずに春を楽しみましょう。

 
  ひとの話 その2 【院長】 2022/10/25
 今回もひとの起源・進化について考えます。前回のブログが今年の4月でしたのでおよそ半年がたってしまいました。今年の夏は例年になく暑く、その上新型コロナ感染症患者の増加の日々が続きました。一日一日が大変でした。私たちの環境が少しずつ変化していると認識することは容易です。この中で目には見えない何らかの進化が進んでいると考えるのは荒唐無稽の話でしょうか。
 前回はウイルスが生命の起源における役割(意味)について考えました。今回もひとの起源・進化ですが、その前に一般的に進化について考えたいと思います。代表的な進化論としてはダーウィンの『 種の起源 』があります。有名すぎて紹介する必要もない著書ですが、内容を理解することはとても難しいです。もっと易しい進化の入門書はないかと探していたら、『 はずれ者が進化をつくる 』稲垣栄洋著、ちくまライブラリー新書2020年6月発行、を見つけました。今回はこの本を紹介しながら進化を考えたいと思います。同書のサブタイトルには “ 生き物をめぐる個性の秘密 ” とあります。進化のなかに個性が出てくるとはびっくりしましたし、以前このブログでとりあげた個性の話を思い出しました。稲垣氏の同書は2021年中学入試「国語」で出題数No.1作品とのことです。中学生にも読んで欲しい本ということでしょう。読んでみると分かるのですが理解しやすい文章、豊かな説得力(論理)、引きつける魅力的な例で進化の話の中に引き込まれます。では最も興味をもった箇所を紹介しましょう。140ページに「負け続けるということは、変わり続けることでもあります。生物の進化を見ても、そうです。劇的な変化は、常に敗者によってもたらされてきました」。また、142ページでは「生命の歴史を振り返ってみれば、進化を作りだしてきた者は、常においやられ、迫害された弱者であり、敗者でした。そして進化の頂点に立つと言われる私たち人類は、敗者の中の敗者として進化を遂げてきたのです」。ここで敗者とは何かが重要です。著者は「現在、生き残った生物は、負けることはあっても、致命的になるような大きな負け方はしてこなかったはずです」と言っています(143ページ)。同書では負けることの意味を深く考えていますのでぜひ全体の一読をお勧めします。この本は全189ページです。進化に関係していつ個性が出てくるのか期待しながら読み進めました。
 そして、といとう最後の “ おわりに ” に個性が登場しました。以下はその部分です。長いので一部省略しながら紹介します。“ 「天上天下唯我独尊」という言葉があります。・・・。これは、「広い宇宙の中で、誰もがたった唯一の尊い存在である」という意味なのです。つまり、私たちの個性が大切だと言っているのです。・・・。個性にとって大切なことは、「その人らしさ」であり、それがバラバラであるということです。・・・。個性とは何か、その明確な答えを私はまだ十分に知りません。・・・。しかし、生物は個性ある存在として進化してきました。そして、すべての生物は個性を持つ存在です。” 理論的に整った難しい進化論より、分かりやすい稲垣氏の考えは如何でしょうか。はずれ者が進化をつくる、という考えはこれからも進化し続けることと思います。
 以前、このブロブの中で25回にわたって個性の話をしました。個性が進化に関連しているとは、気付かず好き勝手に個性について放縦しましたが、時間がありましたらもう一度ブロブを読み直して下さい。これからも個性について思考し続けたいと思いました。
 同時にひとの起源・進化も続けたいと思います。

  ひとの話 その1 【院長】 2022/04/04
 昨年(令和3年)の12月に個性の話が終了し、次回からひとの話を始めます、と宣言しましたが、昨年の年末から今年の年度末にかけて新型コロナウイルス感染症の第6波に襲われたこと、第3回目のワクチン接種が開始されたことなどが重なり、ブログ作成がのびのびになってしまいました。
 ひとの話を始めるにあたって、昨年12月の段階ではいくつものテーマを考えていました。ひとを多面的に自由に考察してみたいと思ったからです。適当に考えたところ20以上のテーマが見つかりました。残念ながらそれらに一貫性や統一性はありませんでした。なので、どのテーマから始めたらよいか迷ってしまいました。いくら考え込んでも初めの第一歩は見つかりそうもありませんでしたので、適当に自分の興味本位からひとの起源・進化を選んでみました。ただ、このテーマは相当難しく自分の頭脳に貯蓄した知識だけでは到底太刀打ちできそうにありませんでした。そこで知識の宝庫、図書館に応援を頼みました。実はひとの起源・進化を考える前に生命の起源・進化についても考えました。この段階を踏む方が、いきなりひとの起源・進化を考えるよりも自然な思考の流れかな、と思ったからです。
 この2年間巷(ちまた)では新型コロナウイルス感染症の対策(診断・治療・予防)で持ちきりです。新型コロナウイルスに限らずウイルス感染症に関する人々の関心は高くウイルスの関する本は飛ぶように売れているようです。そこで私も新型コロナウイルスの勉強も兼ねて興味本位でウイルス関連の本を探していましたら『ウイルスの意味論』山内一也氏著、みすず書房を見つけました。ぱらぱらと読んでいくうちにウイルスが生命の誕生、進化に重要な役割を果たしているらしいことが述べられていました。「アーキアウイルスと巨大ウイルスの発見は、ウイルスの役割や存在意義に新しい展望をもたらしている。生命の起源は、一説には深海中の熱水噴出孔付近であると考えられているが、この領域でもアーキアウイルスが発見されている。ウイルスが生命の起源に関わっている可能性が強くなってきたと言えよう」(130ページ)と述べられています。また、「ヒトのゲノムには、約256000個(組み込み部位)のHERV(ヒト内在性レトロウイルス)が存在している。中略。HERV-H(HERVの一種)は多様性の維持に関わっていることが推察されている」(91ページ)いう研究も紹介されています。ウイルスは感染症を引き起こす悪いイメージしかありませんでしたが、「受精卵は身体のあらゆる細胞へと分化できる多様性をもっている」(91ページ)、であることを示し、この多様性こそ山内氏はウイルスの存在の意味と考えています。
 しかし、「天然痘、麻疹、牛疫のような、高い伝搬力・致死率の病気を起こすウイルスは、宿主の生物が高密度に集まっている環境でなければ存続できない。その意味でこれらの病は、都市化や畜産業の発展などへ舵を切った人類の宿痾(しゅくあ、持病)と言える。今後もさらに人口が増え続ける以上、毒性の高い病原ウイルスが出現するリスクはさらに高まっていくだろう。」(182ページ)と予言しています。この本が出版されたのが2018年12月14日ですから、新型コロナウイルス感染症のパンデミックの約1年前です。何という先見の明でしょうか。個人的な感想ですが『ウイルスの意味論』は名著だと思います。これまた個人的なことですが、私は著者の山内一也氏にお目にかかったことがあると思います。この著のあとがきに山内氏は1980年代東京大学医科学研究所で研究を行なった、と書かれています。私は1978年1月から1987年3月まで同じ研究所で研究を行なっていました。研究所の研究発表会かどこかでお目にかかっていると思われます。おそらく90歳(または91歳)になられた今も執筆などで活躍されている同氏に敬意を払いたいと思います。
 次回もひとの起源・進化の話を続けます。

  個性の話 その25(個性の話の最終回) 【院長】 2021/12/20
 今回は前回予告した “ 菜の花は薹(とう)がたってから花が咲く ” について考えます。
 この言葉を座右の銘にしていた方がいます。将棋の棋士で故米長邦雄永世棋聖です。米長氏は49歳11ヶ月で名人位を獲得した棋士としても有名ですが、この言葉を名人戦の挑戦者になったときに、心境として発したことでも知られています。しばらくこの言葉の意味を考えて行きますので、お付き合い下さい。
 ウィキペディアによれば、菜の花はアブラナ科アブラナ属の花の総称で、アブラナまたはセイヨウアブラナの別名としても用いられています。この属にはハクサイ、キャベツ、ブロッコリー、カラシナ、カブ、ノザワナ、コマツナ、チンゲンサイなどがあります。食用部分が葉であることが共通していますね。カブは根も食用です。薹とはgoo国語事典によればアブラナやフキなどの花軸や花茎で、薹が立つとは花茎が伸びてかたくなり、食用に適する時期を過ぎること、です。全体としては、菜の花は旬を過ぎてから花が咲く、あるいは菜の花は旬が過ぎてからでも花が咲く、という意味でしょう。私には、年をとっても諦めるな、あるいは年をとってからが本番だぞ、といった言葉に思えます。
 以上、前置きが長くなりました。ではこの言葉と個性との関係はどうでしょうか。
 菜の花は薹(とう)がたってから花が咲く、に対する言葉として、早熟の天才という言葉が浮かびます。将棋、囲碁、音楽、数学などの分野では幼少時でも才能が発芽し、本人の努力(並外れた好奇心)や周囲の環境によってはどんどんその才能が開花します。一部の人に与えられた天賦の才能でしょう。私たち一般の人はどうでしょうか。私たちは一生を通して発揮する個性(特別な花)もなく、例えあったとしても個性を発揮する時間も場所もなく、埋もれたまま一生を終わる運命です。しかし、菜の花は違います。小さな黄色い花でモンシロチョウが好きな花です。決して目立ったきれいな個性のある花でもありませんが、薹が立ってからでも花が咲きます。これが菜の花の個性です。私たちは元気づけられます。もしかしたら私たちも薹が立ってからでも花を咲かすことが出来るのでは、と思ってしまいます。菜の花のように生きてみるか、いや、菜の花のように生きてみたい、と思わせてくれます。菜の花は私たちの仲間です。菜の花こそ私たちの代表的な個性ではないでしょうか。
 今回で25回にわたった個性の話を終了致します。これまで例外の話、個性の話と続きました。素質についても興味がありますが、個性の話17などですでに考察しましたので、また素質についての思考が深まりましたらお話ししたいと思います。次回から現段階では仮ですが “ ひと(人) ” についての話を始めます。これからもお付き合い下さい。

  個性の話 その24 【院長】 2021/12/06
 前回は多様性と普遍性について考えてみました。
 今回は、個性から少し離れて、個性的について考えます。さっそくgoo国語辞書で個性的について調べて見ました。独特であるさま、とありました。例として「個性的な人」、「個性的なデザイン」があげられていますが、聞き慣れた言葉でとくに注意を引く言葉には思えません。なんで今更、と思われる方も多いと思います。
 ところで個性的な人と言われたときに、“ その個性的な人 ” に対する印象あるいは判断は如何でしょうか。はっきりした意見を述べることは難しいと思いませんか。例えば、個性的な人を積極的な個性と判断するのか、消極的なのか、どちらか一方の選択に迷う時があるとします。その時、積極的とか消極的を回避して、「個性的な人」といえば、無難な判断と思いませんか。つまり、白黒をはっきりつけるのではなく、個性的な人とは灰色的な言い回し、と感じます。しかし、灰色的な言い回しの「個性的な人」こそ、個性的であるが故に、独立した言葉のようにも感じます。個性的とはその表現自身が独立している、と考えてみました。
 そこで個性的を人以外についても考えてみました。例えば、先にあげた個性的なデザインはどうでしょうか。灰色で決定を避けた言い回しでしょうか。むしろ、はっきりした個性が浮かび上がる、言い回しではありませんか。斬新的なデザインでこれまでのデザイナーあるいは画家とはっきり違いが出ているデザインという感じです。個性的なデザインには主張を感じます。デザインには的をつけた方が “ ようす ” や “ らしさ ” をよりはっきりさせている感じです。goo国語事典で示された独特であるさま、になるのです。
 もともと人の個性は多様で目に見えません。なので、はっきりした判断がつきかねます。その時は個性的の登場です。むしろ、この言い方の方が、少なくとも人に対しては灰色的ですが、意味のある言い回しになっていると思います。個性的とされた対象によって、その対象の個性が引き出されていると言えそうです。時に個性的という “ あやふやな ” な表現の方が腑に落ちることもありそうです。
 次回は、“ 菜の花は薹がたってから花が咲く ” について考えます。これで個性の話の最終回とします。

  近況報告 【院長】 2021/10/05
 しばらくご無沙汰しております。
 今回は連載中の個性の話はお休みし臨時のブログをお届けします。
 先のブログ(6月)から10月までの間、当院ではいろいろなことがありました。簡単にご報告致します。
 5月中旬から新型コロナウイルス感染症ワクチン接種が始まりました。はじめは65歳以上の高齢者が対象でしたが、接種を希望する人が多く驚きました。電話での予約としましたが、実際は直接来院された方も多く、診療中の電話予約対応と直接来院者の予約対応の両立が大変でした。その後、65歳以下の人の接種も始まりましたが、江戸川区では供給されるワクチンが不足する事態が発生し予約出来ない人が多数生じました。接種希望者の電話が鳴りっぱなしの日もありました。なんとか9月中旬頃には成人対象のワクチン接種も軌道に乗った感じです。今はインフルエンザの予防接種に重点を切り替えています。難しい対応にあたったスタッフの皆さんに感謝申し上げます。
 また、この間、新型コロナウイルス感染症に感染した患者さんの診療も行ないました。個人的にはこの新しい感染症の臨床的な特徴を知る良い機会だったと思います。時間と場所を区別して診療を行ないましたので、かかりつけの患者さんにとっては、いつ当院でコロナの患者さんを診察していたのかは分からなかったと思います。今後、第6波にどう対応するか思案中です。新しい国産のワクチンや薬が開発されていますので、早く実臨床の場に供給されることを願っています。
 横浜市立大学のデータサイエンス学部の汪先生との共同研究も進行しました。実際には5名の大学院生との共同研究ですが、研究テーマの設定、研究の進め方などオンラインでの討論を繰り返し行ないました。改めて、医学分野でのデータサイエンスの意義を深めることが出来たと思います。10月からの夏休み明けの院生との討論が楽しみです。皆さんの研究論文の作成が当面の課題です。
 これまで62回続けてきた糖尿病勉強会に変えて11月から、ほさか内科医院勉強会、通称「まいにち健康」を始めます。対象は糖尿病患者さんに限らず、誰でも参加出来る雰囲気にして、テーマも医学全般にします。初回は “ めまい ” を取り上げました。たくさんの方の参加をお待ちしています。
 これからもブログを連載して行くつもりです。次回はまた個性の話に戻ります。ご期待下さい。

  新型コロナウイルスワクチンといつもの診療  【スタッフ】 2021/06/01
 情勢の荒波にもまれながら、平常通りの診療を継続するよう努めています。その合間を縫い、新型コロナウイルスワクチンの接種が進行中です。本物のワクチンを扱うようになり身が引き締まります。
 ワクチン接種が順調に行えるようになるまで考えなければならないことがたくさんありました。そのため院内会議では頭が混乱しそうでした。予約受付が開始してからは、かかりつけ患者さんの熱意を感じさせられました。現在予約の受付は一旦停止しております。
 予約受付の再開や次に予定されている基礎疾患のある方や一般の方の予約に関しましても、決まり次第院ホームページ等にてお伝えします。予約受付再開後の予約時期のおおよその目安として8月以降になると予想されます。

 通常の診察の方とワクチン接種の方が同日に来院しますので、待合室ではできる限り混雑が起こらないよう感染対策に留意した対応を行っております。従いまして、発熱の症状がある場合の直接の来院はお控えください。まずは東京都発熱相談センター(03-5320-4592)へお電話お願いします。当院にかかりつけの場合も、当院へお電話いただきご相談ください。

 前回ご紹介した管理栄養士による栄養食事指導もご好評いただき、引き続き行っております。検査値が改善した、体調に良い変化が現れたなど効果がみられた方もいらっしゃいます。改善の方向へ向かうと私たちも一緒にうれしくなりますね。

 個人的なことですが、ちょうど日本糖尿病療養指導士(CDEJ)の更新の年でもあり、その準備も重なっています。去年までの私がコツコツ頑張ってくれていたので、こちらはなんとかなりそうです。仕事が山盛りな日々ですが、休むときはしっかり休んで自分の体調管理にも気をつけています。時には趣味を楽しむゆとりも確保しています。

 平穏に戻れる日がいつになるのか見通せませんが、抜け出せる日を目指して1日1日を乗り越えていくしかありません。そんな中でも変わらず元気で過ごせるようお手伝いすることが当院の役目であり、最善を尽くしていきます。

  個性の話 その23 【院長】 2021/05/26
 前回は個性と多様性 (diversity) についてお話ししました。ふと気がつくと世の中は多様性の議論に満ちあふれていました。至る所で多様性についての議論が起こっています。これまでじっとなりを潜めていたマグマが噴き出した感じです。特に、生物多様性とその消失は地球の温暖化と関連して国際的な議論となっています。ただ、前回の個性の話その22で取り上げた個性と多様性(あるいは個性の多様性)について当方の考察はまだまだ浅く、これからも考え続ける必要があり、簡単に結論が出るというものではない気がします。従って、これからも個性についての考察はしばらく続けてゆきたいと思います。
 今回は、多様性から少し離れ前回予告しました普遍性について考えてみます。おなじみのgoo国語辞典によれば、普遍性とはすべての物事に通じる性質。また、すべての物事に適合する性質、とありました。英語では university です。 University とくれば大学です。大学とは普遍性を追求する場ということですね。 University の対義語は対義語辞典onlineによれば特殊性でした。 Diversity ではありませんでした。この事典には特殊性の英語の表現はありませんでしたが、特殊性は specificity (または specialty ) でしょう。また、対義語辞典―WORDDROW.netによれば university の対義語は独自性でした。独自性の説明は、その人や物にだけ備わっている性質、個性とあり、英語では individuality が当てられていました。以前、個性の話その1で個性に相当する英語として characteristics を当てましたが、 individuality もいいですね。 Individuality の和訳は新クラウン英和辞典によれば個人的特徴、個性とありました。普遍性の対義語を考えているうちに、何となく個性のイメージや普遍性のイメージが湧いてきました。個性を正面から考察するのではなく、多面的に考えることも必要ですね。今回のテーマは普遍性についてです。普遍性を人間について求めれば、その答えは、人間とは朝は四本足、昼は二本足、夕は三本足の生き物ということでしょう。いきなり何だ、と思った方もいるかもしれませんので説明します。その昔、フェキオン山にスフィンクスという怪物が住んでいて、通りがかった旅人に “ 朝は四本足、昼は二本足、夕は三本足の生き物は何か ” を問いかけていました。それに答えられないと食い殺されるといった話です。あるとき旅人オイディプス(ギリシャ神話で有名です)が通りかかり、それは “ 人間だ ” と見事に答えたためスフィンクスは自ら身を投げた、というお話しです。
 前回の個性の話その22で多様性を考えているうちに普遍性が浮かびました。今回の考察では、多様性と普遍性は互いに対義となる言葉ではなく相補的な言葉のようです。つまり、多様性を考えればそれを保障し結びつける普遍性が浮かび、普遍性を考えればそれが具体的に顕われた多様性が浮かぶ、といった感じです。多様性を深めようと普遍性を持ち出しましたが、双方は少し離れて、互いに補う言葉だったようです。如何でしょうか。いやいやそんなに簡単ではないよ、といった声が聞こえてきました。次回も個性の話を続けます。

  個性の話 その22 【院長】 2021/04/08
 今回はダイバーシティ(多様性; diversity)についてお話しします。このブログを読んで頂いている皆さんは個性の話に、多様性を持ち出したことに疑問を感じますか、それとも素直で適切なテーマだと感じますか。手前味噌ですが、私はダイバーシティこそ個性の話の一つの到着点ではないかと思っています。
 ただ、一口にダイバーシティと言っても分野によって個性が関与するとは限りません。例えば、天候について考えてみましょう。日本は春、夏、秋、冬と四季がそろって気候の変化(多様性)は世界でも類を見ないほどはっきりしています。一方、熱帯の気候の変化について考えてみました。WIKIBOOKSによれば “ 熱帯の気候は一年中暑くて雨が多く地域によって雨期と乾期があるが温度の変化が少ないためはっきりした季節性を認めない ” とされています。つまり、日本は熱帯より気候については多様性があると言えます。また、植物の種類について考えてみました。熱帯植物の種類数を詳しく調べたわけではありませんが、熱帯に生育する植物は日本より種類は極めて多いことが知られていますので、豊かな多様性と言えるでしょう。しかし、天候の多様性や植物の多様性に個性が関与するとは言いがたいです。やはり個性の多様性を考えるときに、対象となるのは人間だと思います。
 最近話題にのぼるLGBT (あるいはLGBTQ+; L:lesbian,G:gay,B:bisexual,T: transgender,Q:questioning,+:その他)はセクシュアルマイノリティの総称で、人間社会を構成する様々な人々(多様性)を認識した言葉と考えられます。この言葉には人間の個性を尊重する意識も反映している、と考えられます。また、この言葉の背景には文化的な意味が存在する気がします。以前、個性の話16で司馬遼太郎氏の見解を参考にして、文化とは社会の個性を表わすものと考えました。個性を尊重する多様性のある社会は、現代に生まれた文化と考えても良いかもしれません。そうだとしたら、個性を尊重し多様性のある社会は一つの文化として根づき、世界に広まり続くことが期待されます。そうなれば一種の文明(普遍性)となるでしょう。この考えも司馬氏の文明論からきています。
 そこで次にダイバーシティの中に普遍性というテーマが浮かび上がってきました。個性、多様性、そして普遍性は相互に関連し合って一つの世界を作り上げている、と思います。多様性と普遍性について、次回は考察したいと思います。

  個性の話 その21 【院長】 2021/02/16
 前回は個性には遺伝が関連しているのではないかと思い、遺伝の法則を少しだけお話ししました。その中でメンデルの「優性の法則」では優性、劣性という言葉の代わりに顕性、潜性という言葉を使う方向になっていることもお話ししました。そこで今回は、顕性とは、潜性とはについて考えてみます。それを踏まえ、個性の遺伝的特性についてお話ししたいと思います。
 優性を顕性に、劣性を潜性に変更した最も大きな理由は優劣をイメージしてしまうから、でしょう。メンデルが用いたエンドウ豆では形質として、種の色が黄色(優性)か緑(劣性)、丸い種子(優性)としわのある種子(劣性)などでした。黄色が優性で緑が劣性、丸が優性でしわが劣性とは観察者のメンデルが決めたことです。もし、黄色の種を実らせるエンドウの方が自然界で生存する能力が高く温度変化などの自然条件の変化に強い品種であるとしたら、黄色が優性と言えるでしょう。しかし、私が知る範囲では黄色い種を実らせるエンドウにそんな力が備わっているかは不明です。例えば生存する能力を生存時間として、長いほうが優性(優っている)で短いほうが劣性(劣っている)と考えることは出来るでしょう。とは言っても、優劣の客観的な判断もむずかしく、人の生き方では “ 細く長く ” が良いという人もいれば、“ 太く短く ” で良い、と言う人もいます。一概に長い生存時間のほうが優っているとは限りませんね。優劣の判断は人間が「主観的に」行なっている、と考えられます。従って、優性を顕性(顕われること)に、劣性を潜性(潜んでいること)にしたわけです。顕性や潜性のほうがより客観的にものごとの性質を判断できる感じがします。
 さて、個性の話に戻ります。以前個性とは個体を特徴づけるものと書いたことがあります。今回、個体を特徴づけるとは素質が顕われたと考えてみます。素質が顕われるためには、素質の元になる遺伝的特性が存在することが前提でしょう。その上で、環境が整い努力が伴って素質が開花することになるわけです(個性の話その18)。素質が開花し顕われた「花」は目で確認し、匂でも確かめることもできます。つまり、特徴を五感で認識し、もっと奥に潜む特徴を理性を通して認識することが出来るわけです。この特徴こそ個性と考えます。従って、個性とは個体を特徴づけるもので、その奥に遺伝的特性が存在すると考えるわけです。
 メンデルの「優性の法則」は個体を特徴づける法則と考え、個性の法則にしては如何でしょうか。
 次回は今話題のダイバーシティ(多様性; diversity)と個性について考えます。

  個性の話 その20 【院長】 2021/01/25
 以前、個性の話その17で素質について調べたことを書きました。その中の『栄養・生化学事典』(朝倉書店)で調べた素質についての説明と、その説明に対しての私の感想を再度紹介します。素質とは、体質、素因という生まれつきもっている性質、将来機能を発現する基盤となる遺伝的特性、もしくは機能障害を起こす可能性のある遺伝的特性などをまとめていう、という説明で、私の感想として、この事典の説明では、素質は必ずしも “ すぐれた能力 ” に結びつくとは限らず、 “ 機能障害 ” といったネガティブな事象を起こす可能性もあわせて記述しているところに特徴があります、と述べました。また、遺伝的特性という言葉も出てきましたので、今回は素質の遺伝的特性や優性、劣性についてもお話ししたいと思います。その上で個性と遺伝的特性についても考えます。
 遺伝的特性を考える上で、遺伝の法則を知ることが重要です。遺伝の法則で有名なものはメンデルの法則です。メンデルとはグレコール・ヨハン・メンデルという人で1865年にこの法則は報告されています。メンデルに関してはたくさんの伝記が書かれていますが、中村千春著『メンデルの仕事と生涯「今に私の時代が来る」』によれば、当時メンデルは修道院の修道士で院内の庭でエンドウ豆を栽培して観察・研究を重ね、メンデルの法則にたどり着いたようです。その法則は、優性の法則、分離の法則、独立の法則として知られています。ウイキペディアによれば優性の法則は法則として扱わないことが多いそうです。その理由は、メンデルの優性の法則は両親から受け継いだ形質(例えば性格、体格、目の色、髪の色など、対立形質という)のうちどちらか一方の形質が現れる現象(完全優性)でとして報告されましたが、実際にその現象が現れるのは例外的、だそうです。つまり、両親から受け継ぐ形質はどちらか一方からのみではなく、一緒に伝わるということでしょう。いずれにしても対立形質とは遺伝学の用語ですので、簡単にいえば素質のもとになる遺伝子と考えましょう。また、最近では2020年1月に日本医学会から優性遺伝という言葉の代わりに顕性遺伝、劣性遺伝の代わりに潜性遺伝という言葉が提案され、広く意見を募集していました。その結論として顕性遺伝は顕性遺伝(優性遺伝)とし、潜性遺伝は潜性遺伝(劣性遺伝)と標記し5年位経過してから医学用語管理委員会に提示し推奨用語に移行するようです。高校の生物ではすでに顕性、潜性の使用が決まっているようです。
 今回は、個性と遺伝的特性までには至らず、遺伝学の入り口まででしたが、次回はもう少し入り込みたいと思っています。

  近況報告  【スタッフ】 2020/12/11
 10月、11月が目まぐるしく過ぎてようやく一息 “ つぶやけ ” そうです。江戸川区の健診、インフルエンザワクチン接種と新型コロナ感染症に関する仕事を同時に遂行していました。ピーク時は猫の手も借りたいほどでした。
 12月から当院では、新しい取り組みがスタートします。管理栄養士による栄養食事指導を行う体制が整いました。対象は糖尿病、高血圧、脂質異常症などの慢性疾患がある方です。対象の方には通常の診察時にご希望をお伺いします。予約制で当面の間は土曜日が主となります。
 管理栄養士は当院に新たに加わったスタッフです。とても心強い存在となり、食事の面からのより質の高い治療を一緒に目指していきます。 " 栄養食事指導 " と聞くと厳しい制限や指示に従わなければならないのかと身構えてしまうかもしれませんが、堅苦しく考える必要はありません。これまでの食事の仕方を見直してみたり自分に合った取り方や栄養についての知識を深めてもらいながら、30分程度の対談をしていく場です。したがって対面にて行いますが、感染対策を徹底して取り組みますので対象となる方には積極的に受けて頂きたいと思っています。

  個性の話 その19 【院長】 2020/11/02
 前回は素質に関連する言葉として才能について考えてみました。今回は才能に関する言葉を探してみました。
 「天才は1%のひらめきと99%の汗」、これは有名なトーマス・エジソンの言葉です。英語ではGenius is 1 inspiration and 99 efforts。 天才のひらめきといえども、それは努力と結びつた汗の結晶、と言いたいのでしょう。磁束密度(磁場)の単位テスラに名を残しているニコラ・テラスの言葉には「天才とは、99%の努力を無にする、1%のひらめきのこと」があります。エジソンの言葉に似ていますが、なんとなく努力が泡と消えるような、むなしく感じる言葉に思えますが、本質はエジソンの言葉と同じでしょう。天才の1%のひらめきは99%の努力を生み出すのですから、そのパワーはすごいと思います。今回の話では、天才の1%のひらめきを才能と考えます。ただし、1%のひらめきが生じるためには99%の努力が同時に必要であることを忘れてはいけません、ということです。99%の努力は限りなく力強く、長くつづく精神的(知的)、身体的な活動の過程で生み出されるものでしょう。気力、体力も才能と同時に兼ね備えられてこそ天才と言えるのでしょう。だから、1% と99%を比較するのではなく、1% inspiration and 99% effortsと言っているのですね。普通の人々はもともと1%が存在しないか、たとえあっても、99%の努力の過程に耐えられないのかもしれませんね。結局は才能プラス努力ということです。
 論語のなかに、 “ 之を知る者は、之を好む者に如かず 之を好む者は、之を楽しむ者に如かず ” があります。 之とは人物や物事を示す目的語です。 “ 之を知る ” ためには、趣味で楽しむレベルから、本気で取り組む仕事(研究も含めて)まで幅広く存在するでしょう。楽しむとは喜んで打ち込める、没頭できること、と理解します。
 楽しむことが出来てこそ、飽きずに長く続けられ、その結果として何らかの努力の結晶が析出する、ということですね。好きこそものの上手なれ、継続は力(努力)なり、です。

  個性の話 その18 【院長】 2020/09/07
 前回の個性の話17は、個性と素質について考えました。つまり、素質は個性の元(もと)になる性質と考えました。前回お話ししたとおり素質は多面的に使われる言葉ですので、もっと深く考察する必要がありそうです。そこで、素質に関連する言葉を探してみました。
 その一つに才能があります。この言葉も気になりますので、調べてみました。『デジタル大辞泉』(小学館)の解説では、才能とは物事を巧みになしうる生まれつきの能力、とあります。また、『大辞林第三版』(三省堂)では「才能とは物事をうまくなしとげるすぐれた能力」、または「技術・学問・芸術などについての素質や能力」とあります。一方、オンライン百科事典の『ピクシブ百科事典』では、ある個人の素質や訓練によって発揮される、物事をなしとげる力、とありました。この事典には前者の二つの事典にはない、訓練によって、という箇所があります。さらに、将棋の羽生善治氏の名言として「才能とは努力を継続できる力」を載せています。この百科事典は、訓練や努力や継続という言葉が好きなようです。従って、才能とはもともとすぐれた素質があって、それを努力や訓練によって開花させる能力、と言うことが出来るでしょう。
 子どもの頃、親がよく言っていた言葉に「十で神童十五で才子二十過ぎれば只の人」があります。自分には関係ないと思い聞き流していましたが、今になって思い出してみますと、素質があっても努力を継続しなければ、埋もれたままで終わってしまうよ、と言いたかったのでしょう。親は何か私の素質を感じ取っていたのでしょうか。自分には何の素質も無いと思っていましたので、今でも開花しなかった、という思いはありません。ただ、素質の有無は別にして、努力や訓練は嫌いではありませんので、これからも続けて行きたいと思っています。

  個性の話 その17 【院長】 2020/07/31
 前回は文化と個性について考えました。文化についてもっと広く、深く考えたいのですが、考察するだけの能力に欠けていますので、司馬遼太郎氏の “ 文化論 ” で満足したいと思います。しかし、我流の “ 社会の個性としての文化 ” という考察は、どこかでさらに深めたいと思っております。
 さて、以前より気になっている言葉に素質という単語があります。その単語の意味を『デジタル大辞泉』(小学館)で調べました。素質とは1.「生まれつきもっている性質」、2.「将来すぐれた能力が発揮されるもととなる性質や能力」とあります。いっそのこと1と2を併せて、生まれつき持っている将来すぐれた能力が発揮されるもととなる性質や能力、とすれば分かりやすいかも知れません。『大辞林第三版』(三省堂)では①持って生まれた性質、②将来あるものになるのに必要な能力や性質、とありました。将来あるものに、といった少しぼやかした言い方をしています。また、『栄養・生化学事典』(朝倉書店)では、体質、素因という生まれつきもっている性質、将来機能を発現する基盤となる遺伝的特性、もしくは機能障害を起こす可能性のある遺伝的特性などをまとめていう、とあります。この事典では、素質は必ずしも “ すぐれた能力 ” に結びつくとは限らず、 “ 機能障害 ” といったネガティブな事象を起こす可能性もあわせて記述しているところに特徴があります。もっと難しい説明が『世界大百科事典第2版』(株式会社平凡社)にありました。そこには、個人が先天的に持っている機能の身体的ないし精神的反応傾向のこと。このうち身体的反応傾向を体質と呼び、精神的反応傾向を気質と呼ぶ。一般的に素質は環境の対立概念として用いられてきた。しかし個々の現象が形成される過程、つまり遺伝子型の物質的基礎から出発し、環境とのさまざまな相互作用を経て最終的な表現型に至る分化・発達の機構が明らかになれば、いずれは変容あるいは消失する概念である、とありました。素質には体質と気質の両面があること、生命の発生・分化・発達の機序が解明されるにつれて素質という言葉はなくなるかも知れないとのことです。興味ある見解です。
 以上、四つの事典の説明をまとめると、素質は生まれつきもっている性質で、まだ未確定でこれから先に起こると予想される性質、すぐれた能力として開花することもあれば精神的あるいは身体的障害となることもある、と理解できます。個性と素質について考える時、素質は個性の元になる性質、と考えられるでしょうか。
 次回からは、素質と個性について考察を続けたいと思っています。

  個性の話 その16 【院長】 2020/06/26
 前回の個性の話15では、個性の表現の仕方が統計数学的でロボットの個体識別番号のようになってしまいました。統計的・数学的表現は、数学に親しみを持たない人から見れば、時として味も素っ気もないただの数字になってしまいます。そこで、前回の個性の話は、いまだ未熟な思考過程の話として理解して下さい。
 さて、今回は、社会の個性を考えました。司馬遼太郎著「アメリカ素描」(新潮文庫)のなかに、文明と文化の違いについて、蘊蓄(うんちく)が述べられています。大変素晴らしい考えでしたので、のめり込んでしまいました。特に文化の定義については、大変意義深い定義でしたので紹介します。
 文明は「だれもが参加できる普遍的なもの・合理的なもの・帰納的なもの」をさすのに対し、文化はむしろ不合理なものであり、特定の集団(たとえば民族)においてのみ通用する特殊なもので、他に及ぼしがたい。つまりは普遍的ではないもの。以上が司馬流の文明・文化論です。さらに、具体例をあげて、交通信号は、青で進み、赤で停止する、これは世界に及んでいて普遍的であるため文明といえる。一方、文化の例として、日本人の婦人がふすまを開けるとき、両ひざをつき、両手であけるようなもので、立ってあけてもいい、という合理主義は成立しえない不合理なもの、従ってこのかつての日本人の婦人の“立ち居振る舞い”は(日本)文化としています。
 以前、個性の話1で、例外や個性は、個体や組織において無くてはならない必須で無視できないもの、別の言い方をすれば、個体や組織を特徴づけるもの、と述べました。かつての日本社会の不合理な“立ち居振る舞い”は普遍的ではなく、局所的で日本固有ともいえます。つまり、文化とはその地域・社会を表現する特徴、個性といえるのではないでしょうか。
 今回の個性の話の結論は、文化とは社会の個性を表わすもの、とします。

  当院の現在の状況について  【スタッフ】 2020/05/20
 院長のつぶやきに埋もれ、忘れ去られていたに違いない(笑)スタッフです。だいぶお久しぶりの登場です。
 激変する世の中になってしまい、私自身も学会やイベント等の予定が全て白紙になっている状況です。医院で働くことだけが変わらずに続いています。
 当院は糖尿病、脂質異常症、高血圧症といった生活習慣病の治療を中心としていますので、新型コロナ感染症のことは常に念頭において診療しています。つまり、感染のリスクが高い方が多くいらっしゃいます。糖尿病に関してはより慎重になりたいところなのですが、自粛の影響で運動量の減少と食事量の増加に転じてしまいがちで、血糖のコントロールが難しくなっている傾向が見受けられます。ですから尚更、診療をおろそかにするわけにはいきません。当院は通常の診療を行い、治療の継続に努めています。受診に際しては、不安を感じることもあるかと思います。診療時間内でしたら電話での相談も行っています。発熱や咳などの感染症が疑われる症状に関しては、電話にてお問い合わせ頂きますと対応についてご案内します。
 待合室の混み具合についても気になるかと思いますのでお伝えします。
 まず時間帯ですが、午前中よりも午後の方が空いています。曜日別ですと、月曜日と金曜日が比較的空いていて木曜日が最も混み合う傾向です。土曜日は混み合う可能性があります。水曜日休診、火曜日の混み具合は変動します。当院では予約は行っておりませんので、ご都合に合わせ受診できるようにしています。また、電話でのご相談も上記の空いている時間帯をお勧めします。クレジットカードでのお支払いも出来るようになりました。直接のお金のやりとりがなく、便利ですのでご利用下さい。
 忘れていましたが、糖尿病勉強会は3月の会から延期しています。次回は6月7日を予定しています。久しぶりですので気持ちとしては行いたいですね。

   例外の話 特別編  【院長】 2020/05/18
 今回も個性の話はお休みして例外特別編としました。
 普段見えないものが見える ―これが異常のサインです― が今回のタイトルです。
 急性虫垂炎(以下虫垂炎)は比較的多いお腹の病気です。虫垂の存在する右の下腹部の痛みで気づくことが多いのですが、それ以外に発熱や吐き気など症状もあります。意外と診断が難しい病気です。しかも、虫垂炎の初期は虫垂が存在する右の下腹部の痛みではなくお腹の中央あたり(胃のあたり)に痛みというか不快感を生じることがよくあります。そのため、胃が悪いのでは、と思う方が多いのです。虫垂炎が疑われたときに、最近では超音波検査を行うことが普及しています。普段、虫垂炎ではないときに超音波検査で虫垂を見つけるのは比較的難しいのですが、虫垂炎の時は炎症によって虫垂全体が腫大(大きく腫れあがる)、虫垂(盲腸にある細長い筒状の突起)の壁が肥厚してきますので、かえって超音波検査で分かりやすくなります。また、虫垂の周囲に炎症によって、普段には見られない浸出液が溜まるので虫垂の周囲も異常を知らせてくれます。それだけではありません。超音波検査の利点は、プローブという超音波を発生させる部分でお腹を押すことができます。押すという行為が重要なのです。本来の虫垂は柔軟性があり筒状の形がへこみますが、虫垂炎を起こした虫垂は、すこし堅くなっていますので、押しても形を変えたりしません。これも虫垂炎の時に異常を知らせてくれる超音波検査の特徴です。普段見えないものが見えるときこそ、それを異常を感じ取って診断に結びつけることが大切です。
 余談ですが、新型コロナウイルス感染症について、最近のテレビの情報番組で気づいたことがあります。それは、この感染症に罹患したときの症状です。二十歳の患者さんで、高いときで発熱(39度以上)、頭痛、倦怠感が25日も続いたとのことでした。新型コロナウイルス感染症の症状としては少し強すぎるな、といった感じがしました。つまり、これらの症状は見えないものが現れた結果と、感じたのです。その見えないものとは、新型コロナウイルス感染症とは別の病気ということです。それが合併している、と感じました。新型コロナウイルス感染症のときは免疫機構が低下しますので、別の病気が忍び寄ることは十分考えられます。新型コロナウイルス感染症にだけ注意を奪われるのではなく、他にも気をつけなければ、と感じた次第です。

  個性の話 特別編 【院長】 2020/04/07
 今回の個性の話は少し脱線して新型コロナウイルス感染症の個性(特徴)について考察します。
 これまでの2つのパンデミック(1918パンデミックと2009新型インフルエンザ)、ただ2009新型インフルエンザは2011年より季節性インフルエンザと認識された、重症急性呼吸器症候群(SARS)、毎年冬の季節性インフルエンザからの情報、新型コロナウイルス感染の現在の厚生労働省の発表情報(かなり混乱している)と当院での小規模な観察より、新型コロナウイルス感染症の特徴を考えました。

1918パンデミック(いわゆるスペイン風邪):第一次世界大戦中で正確なデータは少ない。
感染者数全世界で約5億人。死者数千万人。死亡者は小児から高齢者まで。死亡率は推定で0.5%位。死因としては第一次世界大戦中の過酷な栄養不良状態での重篤な細菌感染(今とは比較にならない劣悪な栄養、環境状態)。H1N1インフルエンザウイルスによる。飛沫感染。流行の数年前に小規模の流行があったらしい。
2009年新型インフルエンザ:豚由来の新型インフルエンザウイルス(A型H1N1)による。
全世界感染者数不明。死亡者14000人位。死亡率は季節性インフルエンザとほぼ同等(0.01%)。
若い年齢層(10から25歳以下)の感染者が多かった。ワクチン、内服薬のタミフルが有効。飛沫感染。
SARS:SARSコロナウイルスによる。2003年。感染者約30か国で8400人位。死亡者数約800人。死亡率9%位.飛沫感染、接触感染と言われている。重症肺炎、消化器症状(10%)。
季節性インフルエンザ(冬の時期):感染者数は毎年約350万人(約2.7%人口比)。死亡者数数百人。死亡率約0.01-0.1%(報告されている感染者総数、年齢別での感染者数などに統計誤差がある)。高齢者で死亡率が高い。

以上をまとめますと以下のようになります。

1918パンデミックは事象が古く統計の信用性が低く参考にならないが、数年前から流行はあったらしい。この点は参考になります。
SARSは死亡率が高く、コロナウイルスであることが注目されるが流行地域が限られているため、今回の新型コロナウイルスと比較することは難しく、少し特殊と思います。
流行の規模が2009年の新型インフルエンザに似ていますが、今回は咳の症状が強く、肺炎になり易いことが異なります。また、今回の新型コロナウイルス感染は感染力が強い感じです。季節性インフルエンザと比較しても、今回の新型コロナウイルス感染の感染力はもっと強い感じです。

 そこで今回の新型コロナウイルス感染症についての考察です。

~今回の感染患者の特徴~

① 小児(15歳未満)への感染が少ない

その理由は不明ですが、既に今回のウイルスに感染し抗体があると考えれば説明がつきます。証明は血液検査で新型コロナウイルスの抗体を調べればよいのです。数年前あるいは昨年の春から秋頃に集団感染した可能性はあります。成人でも多くの人は既感染である可能性が高いです。40歳以上の成人では昨年秋に流行した風邪の症状(咳がひどく、感染力が高かった)の患者さんを多数診察しました。あの風邪は新型コロナウイルス感染による可能性は否定できません。これも成人の抗体検査をすれば分かります。
② 高齢者、新生児の死亡率が高い
この現象は一般的に高齢者の免疫低下、新生児の弱い免疫によるものと考えられます。流行初期に感染すると症状は軽くなります。現状の新型コロナウイルスは人間への感染を繰り返した結果、毒性は強くなっていると考えますので高齢者や新生児は重症化しやすいと思います。
③ 日本でも今後感染者数は増加する
これまで欧米ほどの患者は診られていません。検査数が極めて少ないため患者の検出が限られているためです。しかし、ピークはこれからと思われます。患者数は通常の季節性インフルエンザよりも多くなると思います。その理由として今回の新型コロナウイルス感染様式は飛沫感染とエアゾル感染があると考えられるからです。エアゾル感染は空気中により遠く、広く漂いますから感染力は少なくとも5倍以上と思われます。感染者数は季節性インフルエンザが400万人とすれば今回は2000万人となるでしょう。しかし、①述べました既感染者多いと思いますので2000万までは広がらないでしょう。また、感染防止の意識が高く、政策的な措置もとられていますので、予想の10分の1以下とすれば100万人以下位でしょうか。4月6日現在全国で約3500人ですが検査数が少ないので感染者はこの数十倍として、実際は10万人位でしょう。そうするとまだまだ感染者の増加は続きそうです。

 以上、あくまで私見ですので感染が収まった頃にもう一度検証する必要があります。

  個性の話 その15 【院長】 2020/03/03
 今回は個性の話15回目です。前回の個性の話14回で、次回はもう少し個性を客観的に推し量(おしはかる)方法を考えてみます、と締めくくりました。そこで今回は個性を客観的に推量する方法を考えてみます。
 個性を推量するには様々な切り口を考えなければなりません。例えば、性格的に積極的か消極的か、神経質かおおらかか、などです。さらに、年齢、性別、身長、体重、学歴、収入、美貌(客観的な容姿)、嗜好品(喫煙、飲酒)、趣味、生活習慣(早寝か夜更かしか、運動が好きか否か、早食いか否か)、持病の有無(血液検査での異常値を含める)などの個人的な要因に加えて、親・兄弟・姉妹を含めた家族構成、友人関係、婚姻歴、会社の人間関係など身の回りのあらゆる社会的要因が切り口の候補に上がります。これらは固定した要因ではなく、常に変化する要因と考えますので、仮に、それぞれを Xi X1, X2,・・・,Xi)と表わします。さらにまだ知られていない未知な要因も考えなければなりません。それを ε(イプシロン)とします。 Xi ε をまとめて加算して個性 (Yi)を推量します。なんだか統計学の重回帰分析みたいになりました。この分析を遂行するためには、いくつかの作業が必要です。はじめに、数字で表せない要因(例えば性格とか)を数字に変換する作業が必要になります(個性の話12回を参照)。そして Xi にはパラメータが必要になりますので、沢山の人々の個性の情報収集と分析する作業が必要です。複雑な計算が必要になりますが、今のコンピュータを使えば何とかなるでしょう。最後に個性を知りたい i 番目の人の要因を対応する Xi に代入します。その結果、推量された個性 Yi は数字として提示されます。しかし、個性を数字で表わしたのでは分かりにくいですね。数字のままではロボットの個体識別番号みたいになってしまいます。数字に対応する表現を考えなくてはなりません。どのように表現したら良いかは今後の課題です。
 というわけで、今回は個性を客観的に推量する方法を考えてみましたが、今回の考えはあくまで私論です。間違った部分もあるでしょう。今後更に考えを練り直してみたいと思っています。

  個性の話 その14 【院長】 2020/01/30
 今回は個性の話14回目ですが、前回(第13回)の話で、個性を復活させる話しが複雑でしたので今回は復習を兼ねて前回の内容を整理したいと思います。特に、個性の復活のために仮説推論(実際は仮説的推論または仮説推量です)を登場させました。いきなり聞き慣れない言葉を使いましたので、説明不足になっていないか心配です。私自身の勉強も兼ねてどんな推論なのかもう少し考えてみたいと思います。
 仮説推量とはフリー百科事典『ウイキペディア』によれば、古くはアリストテレスも考えていた推論のようですが、それを演繹法、帰納法につぐ第3の推論として考え、アブダクション(abduction)という言葉を用いたのはチャールズ・サンダース・パースとのことです。その推論とは観察された事実を説明するための最も納得しやすい仮説を考察すること、と説明されています。結論と規則から仮定を推論するとも書かれています。帰納法では観察された事実から普遍的な法則を導き出そうとする推論に対して、仮説推量では仮説を推論することですので、帰納法より厳密性は低い推論、別の言い方をすれば自由度の高い推論と考えられます。さらに追加すれば、仮説を提唱し推論するわけですから、次にその仮説を証明する段階、つまり検証が必要になるでしょう。
 前回の話で個性と仮説推量との関連については深く踏み込みませんでした。今回は少し踏み込みます。個性を知るためには、まず個性についての仮説、と言っても単に考えるだけですが、個性を客観的に見なければなりません。これまで個性とは自分で判断して、私は自己主張が強いとか、控えめだとか、主観的に勝手に個性を考えていました。しかし、個性とは他人から、お前は自己主張が強いとか、控えめだとか言われたほうが、説得力がありそうです。個性は客観的に判断(仮説推量)された方が、すんなり受け入れられます。さらに多数の人々から同じ様な意見がでれば(つまり検証されれば)、説得力は増します。
 折角ですから、次回はもう少し個性を客観的に推し量(おしはかる)方法を考え、自分が周囲とどう違うかを考察します。

  個性の話 その13 【院長】 2020/01/07
 個性の話、第13回目です。
 今回は集団から得られた平均化された個性から本来の個性を復活させる、あるいは見直す方法を考えます。本来の個性とは一人一人の個性のことです。一人一人の個性はそれだけで個性と考えられるので、特別に考える必要はない、と思う方もいるでしょう。それがそうでもないのです。つまり、個性になんの変化のない場合、つまり平均化された個性と同じであれば考える必要はありません。しかし、本来の個性が平均化された個性から変化しているか、または本来の個性に何か変化が起こり、それが身体に少し、場合によっては大きな影響を与えるとなれば、その変化の意味をしっかり考える必要があるでしょう。
 個性の話の第2回目で個性とは “ 印(イン) ” であり存在を意味する、と考えました。そのため今回は、本来の個性に起こった変化を “ ずれ ” の存在と考えます。本来の個性を復活させるためには、新たに付け加わった “ ずれ ” の存在とその意義を考えなくてはならないでしょう。少し具体的に考えてみます。例えば、人の体質は如何でしょうか。顔のしわが増えた程度であれば、老化と素直にあるいは仕方なく受け入れます。一方、最近疲れやすい、息切れする、顔色が悪いとなれば、これはおかしい、何か病気かなと思うはずです。反対に、日頃の地道なジョギングの成果でフルマラソンを完走した、となれば体力(体質も)が増強したと考えるでしょう。つまり個性(ここでは体質)に起こった変化は “ ずれ ” の存在を示し、健康のバロメーター(barometer;指標)と考えられます。このバロメーターに関係する要因に気づくことは、本来の個性が復活する、あるいは見直すために欠かせません。
 平均化された個性は、前回考えたように不特定多数の統計学的な個性です。それは “ 過去 ” のデータかた得られる固定されたものです。一方、本来の一人一人の個性は “ 現在 ” のデータから得られるので常に変化しています。本来の個性の復活にあたり、その中に内在する “ ずれ ” の存在を知ることは、体調の変化を知ること(仮説推論)でも有り、少し飛躍しますが臨床医学の病気の診断に似ている気がします。今回は多数と一つに対する考察でもありました。

  個性の話 その12 【院長】 2019/11/30
 個性の話、第12回目です。
 前回は個性のない集団の個性について考えました。前回の個性のない集団とは、個性が埋没してしまっていると思われる集団、と考えて下さい。その個性のない集団であっても個性は存在する、というお話しでした。個性が埋没していなければ集団は存在を示し輝くという意味でした。
 今回は集団の中の個性についてもう少し考えたいと思います。集団と個性の関係とでも言うのでしょうか。最近、「医学的根拠とは何か」岩波新書、津田敏秀著を読みました。この著書で疫学専門の津田氏は日本の臨床研究や医学教育に統計学への認識が不足している現状を訴えておられます。人間を対象とする研究や教育においては、人間を実験的に扱うことはできませんので、多数の人々(集団)から得られた資料を解析し、対象とする疾患の原因と結果(症状)についての因果関係を統計学的に推論することが求められる、としています。統計学的に推論するとは、一人一人に個性があっても一旦それらを平均化して扱い比較の対象にする、と考えられます。平均化された個性であっても、それは集団の個性とも言えるかもしれません。もし、ある集団にこれまでとは違った平均化された個性(症状など)が見つかれば、その個性を引き起こす原因が何かあると考えられます。臨床研究とは人間の集団を統計学的に解析して疾患の原因を推定すること、と考えます。
 ところで平均化された個性とは一体何者でしょうか。とりあえず誰にでも当てはまる個性と考えてみましょう。しかし、誰にでも当てはまる個性は本来の個性とは矛盾した考えですね。そこで具体的に考えてみます。例えば、食事のスピードが早い、いわゆる早食いの人はゆっくり食事する人とは違います。早食いは個性です。食事の速度を平均化するなんて無理だ、と考える方は多いと思います。ただし、統計学的に考える時にはそれが可能です。具体的にはゆっくりの食事は0,早食いの人は2,その中間の人は1として数字に置き換えて計算します。つまり個性を数字に置き換えるのです。その結果、食事の速度の平均が1.5とかになるのです。この集団の食事速度は1.5、誰にでも当てはまる個性です、と言った具合です。平均化された個性は、個性の消滅ですが集団の個性として生まれ変わります。
 今回はここまでです。実際の臨床の現場では個人々の治療が求められます。個性がありますので治療は少しずつ異なります。統計学を用いて集団から得られた平均化された個性をどのようにして個性に反映させるかが大変重要です。
 次回は集団から得られた平均化された個性を本来の個性に復活させる方法を考えます。そうでないと個性が浮かばれませんので。

  個性の話 その11 【院長】 2019/11/05
 今回は個性のない集団の個性についてです。何のことかさっぱり分からない方のために復習します。前回、動物実験に用いた99.9%遺伝的に均一(inbred)のはずの近交系ねずみ集団であっても,発癌物質に対する感受性が異なり100%がんになることはない、といったお話しをしました。つまり遺伝子がほぼ同じでも個性は別、ということになります。その理由はいろいろ考えられます。0.01%以下のほんのわずかな遺伝子の違いが個性の違いとなる、という考え方。遺伝子以外の要因が遺伝子の発現に影響する、という考え方。遺伝子にはお互い相互作用があって、その作用によって遺伝子発現が強まったり弱まったりするため、それが個性となる、といった考え方。などなど考えればきりがありません。しかし、これらの考えは既に現代の遺伝学では知られています。私のオリジナルな考えではありません。残念ながら私は遺伝学が専門ではありませんのでこれ以上うまく説明できません。ただ “ 見かけ上 ” 個性のない集団であっても、個体としては異なっている、と考えられます。興味のある方は、私の曖昧な考えを確かめるためにも遺伝学を勉強してみて下さい。
 反対に、個体としては違っていても全体として一つになることはありますね。
 集団行動です。よさこい祭り、阿波踊り、あるいはイワシの群れ、ムーの群れなどなどです。あの統一感には痺れますね。一人一人の人間あるいは一匹一匹の動物は違っていても全体の行動は一つです。個性はどこに行った、と思われますが一人一人(一匹一匹)ははつらつと(いきいき)しています。集団行動であっても個性は発揮される、と考えます。ラグビー日本代表のone teamですね。
 今回は個性のない集団であっても個性は存在する、というお話しでした。

  個性の話 その10 【院長】 2019/09/25
 今回は個性のない集団について考えます。個性のない集団とは一体何でしょうか。想像できますか。毎日、同じ職場で同じ仕事を繰り返し、のほほんと過ごしている方々は自分のことかも、と思ったことでしょう。実は動物実験に用いるねずみの集団です。ねずみと言ってもどこにでもいる野生のねずみではありません。系統正しい折り紙付きのねずみ集団で、近交系ねずみ(inbred mouse)と言います。このねずみ集団を作り上げるには特別な手法と手間がかかります。その手法とは、ねずみの兄妹または姉弟の近親交配を20世代以上続けることです。ねずみが生殖可能になるまでの期間を約2ヶ月として、20世代だと約40ヶ月以上ですから、上手くいっても4年弱かかります。一般的には近親交配で誕生した子どもでは潜性形質(以前は劣性形質と言われていた)が顕在化し生存が難しくなりますので、新しい近交系を樹立することは大変難しいことです。それを乗り越えて20世代以上近親交配が継続出来た場合には遺伝子的なバックグラウンド(遺伝子99.9%が同じ)を揃えた近交系のねずみが誕生します。このねずみ集団は体や顔の形、毛の色、しっぽの長さ、性格(?)などそっくりで個体の区別がつきません。まさに個性のない集団です。最もどんなねずみでも、個体差は判別しにくいのですが。すでに多くの種類の近交系ねずみが樹立され販売されています。これらの近交系ねずみは個性のない集団ですから、均一性が求められる動物実験に用いられます。
 具体的な動物実験のお話しをしましょう。個人的な話になりますが、私が東京大学医科学研究所に研究者として勤務していた頃、この近交系ねずみを使って発がん性のある物質を探す研究をしていました。発がん性のない普通の飼料を与えた対照群のねずみと、発がん性の可能性のある物質含んだ飼料を与えた実験群のねずみで、それぞれの群のがんの発生率を調べ、実験群で有意に発生率が上昇すれば発がん性の可能性のある物質は発がん物質と認定されました。発がん物質である認定はねずみの数にも拠りますが、がんの発生率が50%程度あれば堂々と発がん性ありとの結論が出せました。ねずみ集団には、個性があっては結果に影響しますので、99.9%同じ遺伝子の個性のない均一性が求められたのです。しかし、私はこれらの研究に大きな疑問を感じていました。その疑問とは個性のない均一なはずのねずみ集団なのに、なぜ100%にならないのか、ということでした。発がん物質かも知れない物質を与えられた実験群のねずみ集団はみな同じ反応を示すわけではありませんでした。この疑問はいまだに解決しておりません。ただ、個性のない集団ですあっても個性はある、と考えれば矛盾はありますが納得がいきます。矛盾は大切な思考の源(みなもと)です。
 折角ですから、次回は個性のない集団の個性についてもう少し考えてみようと思います。

  個性の話 その9 【院長】 2019/08/30
 今回は個性と検査値です。皆さんは会社や自治体などが行なっている健康診断で血液検査を受けられたことがあると思います。血糖値、コレステロール値、肝臓の機能や腎臓の機能、貧血などが良く調べられる検査項目です。これらの検査には基準範囲と呼ばれる、いわゆる「正常範囲」が設定されています。基準範囲の設定は出来るだけ多くの「病気ではない人」を調べて検査値の分布を作成します。その分布は一般的には正規分布と呼ばれる分布になることが知られています。正規分布は富士山みたいに左右対称で中央が尖った山の形をしています。その分布の右側の2.5%を占める面積と左側の2.5%を占める面積を除いた中央部分の95%の面積を占める人々が基準となります。基準範囲を示す値は右側の2.5%の面積の始まる点を上限値、左側の2.5%の面積が始まる点を下限値と言います。この説明を図にすると分かりやすいので下に示しました。言葉で説明すると分かりづらいですね。ともあれ基準とは95%の人々が含まれること、と理解して下さい。はじき出された5%の人々は「病気ではない人」ですが基準外となった人々です。もちろん検査値が基準範囲外となれば、何かおかしい、病気かも知れないと疑われます。
 ではどうして検査値がばらつくのでしょうか。ここに個性が登場します。NHKスペシャルシリーズ人体II「遺伝子」をご覧になりましたか。この番組のなかで人の個性に関係する遺伝子について語られていました。これまでゴミ遺伝子と呼ばれていた遺伝子の98%を占める部分は、今ではトレジャーDNA (treasure DNA ; 宝物DNA) と呼ばれています。つまりこの部分は宝の宝庫という意味です。宝物DNAの中に私たちの容姿、性格、才能など様々な個性を決める情報が存在するというのです。個性は宝物DNAが決めている。従って検査値の一人一人違い、つまりばらつきもこのDNAの違いによる、ということです。
 一部の人の宝物DNAの中には、珍しいけれど素晴らしい体質や能力、例えば病気に抵抗性を示すためのDNAや毒を解毒する代謝能力を示すためのDNAがあるようです。そのDNAの働きを解明し、その他大勢の人々のために応用できれば素晴らしい価値が生まれ宝物となる、と考えられているようです。今後は宝物DNAの解析が更に進み、宝物DNAにたくさんの宝物が見つかると良いですね。個性についても遺伝子レベルで解明されることでしょう。宝物DNAは検査値のばらつきを説明するだけで無く無限の可能性を秘めているようです。宝物DNAが宝の宝庫と言われる理由です。
 今回は検査値のばらつきに影響する個性(宝物DNA)について少しだけ考えました。


※図の中のσは(シグマ)と呼ばれ標準偏差(ばらつきを示す度合い)を示します。

  個性の話 その8 【院長】 2019/08/02
 今回はがんの個性の続きです。前回は “ がんの個性 ” について、半世紀も前に研究がスタートしたお話しをしました。がんに個性がある、と考えたのは創造的な考えを持った研究者です。がん細胞自身が自分には個性が備わっていると自ら主張している訳ではありません。がんの個性はただ漫然とぼーっと顕微鏡で細胞を眺めていただけでは気づきません。個性を見つけ出すためには創意工夫が必要です。
 私はがんの個性に関する研究の一端を担っていて、研究テーマはがん細胞の運動性でした。周囲の組織に浸潤したり、遠くの組織に転移したりする悪性度の高いがんと浸潤や転移の少ないおとなしいがんの間には、がん細胞の運動性に差がある、と思いました。ただし、ぼーっと細胞を眺めていたのでは運動性は分かりませんので、運動性の差を調べるためにある方法を応用しました。それは一つ一つの細胞を立体的な三次元で培養する方法でした。細胞を三次元に閉じ込めるためには寒天を使いました。寒天濃度が高いと堅く固まってしまい細胞は身動き出来ず、増殖も出来なくなりますが、ほんの少しだけ培養液に寒天を溶かすと一つ一つの細胞は培養液の空間に緩やかに固定されます。この柔らかい寒天を含んだ培養液の中でがん細胞は増殖可能でした。実はこの現象は既に知られていて、がん細胞は増殖可能ですが、正常細胞は増殖不可能で、がんと正常を区別する優れた方法だったのです。私はこの方法を運動性の測定に応用したのです。つまり、運動性のあるがん細胞は三次元でも活発に動き回り、運動性の少ないがん細胞はじっとして動かないことが分かりました。何とかがん細胞の運動性に個性があることを証明できました。その後、がん細胞に個性があることは次第に知れわたりがんの研究の主要な柱になりました。
 がんの個性の発見とその特徴は、現在では個別化されたがんの治療、とくに肺がんの治療に結びついていると思います。がんの個性(特徴)を治療に結びつける発想は既に半世紀前に始まっていたと言っても過言ではないでしょう。
 ぼーっとしていては、個性は見つかりません。ぼーっと生きてんじゃねーよ、と言われないように、いつも何事にも関心を持って生きて行きたいですね。

  個性の話 その7 【院長】 2019/07/02
 今回は個性と科学性です。前回の VBM (value-based medicine) と科学性の話で VBM については個性的(患者中心)な医療であることが浮き彫りになりました。個性的な医療を支える医療の科学性については前回お話ししました。繰り返しますが、EBM(evidence-based medicine)は科学性を支える大きな柱の一つです。今回は、反対に科学性に対して個性はどのような影響を及ぼすのかを考えてみました。
 以前に個性の話2で個性とはその存在を示すために必然的に備わっているもの、と考えたことがあります。これからの個性の話は基本的にこの考えに基づいています。ただ、個性といってもこれから登場するのは “ がんの個性 ” です。しばらくお付き合い下さい。今から約40年前、私が東北大学農学研究所の大学院生だった頃、農学の研究とは関係のないがんの研究に興味を持ちました。たまたま当時の東北大学抗酸菌病研究所(現東北大学加齢医学研究所)、肺がん部門でがんの転移の研究されていた佐藤春郎先生の研究室の門を叩く機会に恵まれ、佐藤先生の大きな配慮で研究が許されました。研究室の研究テーマは、がんの転移のメカニズムを解明することでした。私のテーマは、がんの転移に関連するかも知れない、がんの運動性でした。研究に用いたがん細胞は、日本のがん研究の草分け的存在である吉田富三博士と佐藤春郎先生をはじめとする一門の研究者が発見した多数の種類のネズミの腹水肝癌でした。多数の腹水肝癌は転移の仕方が一つ一つ異なり、ネズミの体全体に転移する悪性度の高い種類もあれば、もとのところに留まってなかなか転移しない悪性度の低い種類もありました。この特徴を吉田先生やその門下の研究者は “ がんの個性 ” と呼んで、がんの個性が転移の仕方に影響を与えている、と考えていました。つまり “ がんの個性 ” のどんな個性が転移に影響をあたえるのかを研究室全体で調べていたのです。その中で、私の研究テーマはがん細胞の運動性でした。“ がんの個性 ” の発見とその特徴の究明は当時のがん研究の中心だったと思います。個性を一つ一つ調べて全体を解明するといった研究方法は、個の研究から普遍的な法則を導き出す演繹法(えんえきほう)に近づいていると思います。
 折角ですから、次回ではがん細胞の運動性を研究した結果をお話しし、“ がんの個性 ” の研究が現在のがん治療に役に立っていることを追加したいと思います。

  個性の話 その6 【院長】 2019/06/06
 今回はVBM ( value-based medicine ) と科学性です。VBM についてはこれまでに2回取り上げましたがもう少し深く考えてみたいと思います。
 VBM とは質の高い医療の提供とその有効的な利用という意味に解釈しました。そのためには患者側と医療者側の双方の価値観に見合った治療法が選択されます。これまであまり重視されなかった患者さんの治療に対する意向(価値観)が反映されて治療法が決定されますので、患者一人一人違った治療になるわけです。二十一世紀の世界的な医療の流れはEBM ( evidence-based medicine ) に基づき、患者中心で医療経済的な視点を考慮して行なわれる、とされています。これこそまさに VBM そのものです。
 そこで VBM と EBM の関連について考えます。すでに EBM についてはよく知られていますので簡単に述べます。EBM は “ 根拠に基づく医療 ” と訳されています。科学的に検証された臨床データに基づいて患者にとって有効な治療法を選択する医療です。科学的に検証された臨床データを得るために大規模なランダム化比較試験(大規模臨床試験)が用いられます。一般的に科学的に検証されたデータとは客観性(適切な研究方法に基づいて誰しもが納得すること)と再現性(あるいは普遍性)が求められます。臨床試験では再現性(何回も試験をして同じ様な結果を得ること)を求めることは難しいため出来るだけ多数の人々に参加してもらい、多くのデータを得ることで代用します。VBM には科学性に裏付けられた EBM は不可欠と言えそうです。また、医療経済的な視点について科学性を説明することは難しいと思いますが、例えば薬価や診療費などの決定過程に透明性が保たれ、結果については誰しもが納得するもの(普遍性)であればある程度は科学性が裏付けられます。
 今回、VBM と科学性を取り上げた理由は、VBM では患者側と医療者側の双方の価値観に見合った個別的な治療法が選択されるわけですが、個別的と言っても決して双方の主観的な価値観ではなく、科学性に基づいて誰しもが納得する治療であることが必要、と感じたからです。VBM にこそ科学性が求められる、と思いました。
 次回は個性と科学性について考えたいと思います。

  個性の話 その5 【院長】 2019/06/01
 今回は個性の話、第5回です。
 前回はValue-based medicine (VBM) について考えましたが、個性との関連性は述べませんでした。その理由は、VBMは患者や医療者双方の価値観に基づいた治療と考え、何となく個性的な医療と思えましたので個性の話にかこつけたのです。つまり明確な関連性は分からなかったためです。しかし、今後も少しずつそれらの関連性は考えて行きます。
 そのため今回はもう少し VBM と糖尿病治療について考えます。糖尿病は1型糖尿病、2型糖尿病、妊娠糖尿病、その他特定の機序、疾患によるものに分類されます。特に1型糖尿病は自分のインスリンが血糖コントロールにとって絶対的に不足しますので基本的にインスリン注射は毎日欠かせません。それが一生続くと考えると、身体的負担、精神的負担、経済的負担は想像を絶します。しかも発症時期が若い人が多く、0歳からでも発症します。1型糖尿病は条件を満たせば障害者に認定されますが、もっと保障が手厚い難病に指定されてほしい疾患です。2型糖尿病の治療は食事・運動療法のみから内服治療、インスリン治療など様々です。患者さんの糖尿病の状態が深刻化否かで治療法が選択されます。さらに患者さんの治療に対する意向(価値観)も反映され、治療法が決定されます。一人一人違った個性的な治療になるわけです。糖尿病治療は典型的な VBM に基づく医療と言えそうです。ここで個性とVBMとの関連が少し見えてきました。
 一方、 VBM は医療の一分野ですので医学が基礎になっていなければなりません。医学は科学の一分野です。そのため VBM にも科学性が求められます。患者さんや医療者双方の価値観に基づくVBMに求められる科学性とは何か、という問題が浮かび上がってきます。そこで次回は VBM と科学性について考えます。

  個性の話 その4 【院長】 2019/05/20
 今回は個性の話、その4です。
 前回でお知らせしたvalue-based medicine (VBM;価値観に基づいた医療)について考えてみました。Evidence-based medicineはよく知られていますが、VBMについてはまだよく知られていないと思います。VBMを提唱した人が誰だかはっきり分かりませんが、2005年にBrown MM らが著書の中で詳しく説明しています。しかし、英語の本ですので理解するのに時間がかかります。この本の最後でVBMについてvalue-based medicine = Improved quality of care + Efficient use of healthcare resources と述べています。VBMとは質の高い医療の提供とその有効的な利用という意味に解釈しました。この意味を一言で表わすのは難しいのですが、大切なことは価値観に基づく医療とは患者一人一人の医療に対する価値観だけでなく、医療者側の様々な職種につく人々の考えや立場を反映した医療に対する価値観も指していることだと思います。有効的な利用とは治療効果だけでなく経済的にも患者の考えに見合っていることだと思います。従って一つの治療法に集約することは簡単なことではないでしょう。
 糖尿病の治療について考えてみました。職場の健康診断で初めて血糖値が高いので医療機関を受診して下さい、と言われた方が窓口に現れました。すぐに食事療法と何らかの治療が必要な状態でした。最近では初めて高血糖を指摘された患者に対して糖尿病と診断された場合はインスリン治療が行なわれることが多くなりました。それは出来るだけ早期にインスリンを投与することによって、患者自身のインスリン分泌を回復させ、インスリン治療を止めた後でも自分のインスリンの力で血糖値を下げる効果があるためです。しかし、インスリン治療の治療費は内服薬を使用する治療法より高くつきますし、さらにインスリンを使うといった印象が良くありません。インスリン治療のメリットとデメリットをしっかり説明することが大切です。インスリン治療が “ 良いから ” と言って、押しつけるわけには行きませんので。
 これからは患者と治療者の双方の価値観に見合った治療法が選択されなければならないでしょう。

  個性の話 その3 【院長】 2019/04/01
 個性の話の3回目です。これまでの個性の話を振り返ってみます。第1回で個性は人に対しては性格、人格、人柄、品格に相当し、事物に対しては特性、特色、特質などに相当すると思われると考え、事物よりも人に対して使うことの方が多い気がすると書きました。第2回では、個性は偶然にそこに “ 存在する ” ものではなく、必然的にそこに “ 存在する ” ためにあるものと思われると考え、特徴的な例外を伴って自分を “ 表現する ” ためのものと書きました。つまり、個性とは事物の存在を示す特徴ということでしょうか。
 以上の話は抽象的で分かりにくいので、具体的に「自分の存在を示す特徴」とは何か、について考えます。今回は医療分野で話題のprecision medicine (精密医療)を考えながら個性について考察します。
 Precision medicine とは2015年1月のオバマ前米国大統領の一般教書演説に登場した言葉です。患者の治療に当って最適な方法を選択して施術すること。例えば、肺がんの治療では個別的に肺がんの特徴を遺伝子レベルで調べ、その特徴に見合った抗がん剤を使用することです。これまでパーソナライズ医療(personalized medicine)と言われていた個別化した医療とほぼ同じと考えられますが、precision medicine では個別化の精度をさらに向上させて治療に結びつけること、治療対象を富裕層のみならず、中間層や貧困層にも拡大させたことが特徴です。個別化の精度向上を可能にした背景には、遺伝子レベルでがんの特徴、つまり “ がんの個性 ” を調べる技術が進歩したからです。Precision medicine を成功に導くには疾患に潜む個性を発見することが大切です。これからの治療にはそれぞれの疾患の個性を考慮した治療法の選択が求められることでしょう。今回は事物の個性を病気の個性に置き換えて考えました。
 次回はvalue-based medicine(VBM; 患者の価値観に基づいた医療)について考えます。

  個性の話 その2 【院長】 2019/03/01
 前回の最後に印をインではなく “ しるし ” と考えてみました。
 再度、デジタル大辞泉で “ しるし ” の意味を調べてみますと、

1. 他と紛れないための心覚えや、他人に合図するために、形や色などで表したもの。目じるし。「非常口の―」「持ち物に―をつける」
2. 抽象的なものを表すための具体的な形。 
  (ア)  ある概念を象徴するもの。「平和の―の鳩」「純潔の―の白い衣装」
  (イ) (証)ある事実を証明するもの。証拠になるもの。「見学した―にスタンプを押す」
  (ウ) (証)気持ちを形に表したもの。「感謝の―に記念品を贈る」「お近付きの―におひとついかがですか」
3. 所属・家柄などを表すもの。記章・旗・紋所など。「会員の―」 

などの説明がありました。つまり “ しるし ” は存在を表わす言葉と理解できます。英語の個性に相当する単語、characteristicsとcharacter から印が浮上し、印を “ しるし ” と考え、それが存在を表わすと考えれば、個性は存在を意味する、と考えてもよさそうです。個性的とは存在感がある、とも言えそうです。反対に存在するためには個性が必要だ、とも言えませんか。
 個性は、偶然にそこに “ 存在する ” ためのものではなく、必然的にそこに “ 存在する ” ためにあるもの、と考えます。例外の話の中で、例外と個性の共通点は双方が持っている「必然性」で、例外は個性の表現型、と考えました。つまり、個性とは特徴的な例外を伴って自分を “ 表現する ” ためにあるもの、と言えそうです。如何ですか。
 さらに、お説教的な言い方をすれば、個性を生かすとは、まず自分の個性に気づき、努力して個性を磨き、それを表現する、ということでしょうか。
 今回は、すこし上から目線のお話しでした。

  個性の話 その1 【院長】 2019/02/05
 今回は個性について考えてみました。
 実は例外の話の第17回目で、例外と個性の関連について考えたことがあります。そのなかで“双方とも個体や組織において無くてはならない必須で無視できないもの、別の言い方をすれば、個体や組織を特徴づけるもの、と言えないでしょうか。例外は個性の表現型”、と考察しました。この時はこれ以上深く考えずに今後の課題としましたが、今回もう少し深く考えてみることにしました。
 はじめに、もう一度個性の説明をネットで調べました。デジタル大辞泉で個性について調べたところ、個性とは個人または個体・個物に備わった、そのもの特有の性質。使用例として個性の尊重、仕事に個性を生かす、個性が強い打撃フォームなどが例として挙げられています。Goo国語辞典で調べたときと同じ説明内容でした。デジタル大辞典とgoo国語辞典は同じでしょうか。実際は、使用例のようにはいかず、個性を主張するよりは控えめに振る舞い、仕事で個性を生かし能力を発揮すれば、出る杭は打たれるのが関の山、個性が強い打撃フォームはむりやり修正されて平凡なフォームになり個性が開花しないで結局は埋没してしまうことが多いのではないでしょうか。例外の話17回では触れませんでしたが、個性を人に当てはめれば性格、人格、人柄、品格などが浮かび、事物に対しては特性、特色、特質などでしょう。しかし、個性は事物よりも人に対して使うことの方が多い気がします。英語で個性に相当する単語を調べてみますとcharacteristicsとcharacterがありました。双方ともギリシャ語の“印”を意味するkarakterに由来するそうです。また、characteristicsはcharacterよりも際だった、突出するような特徴を表わすそうです。 “ 印(イン) ” をデジタル大辞泉で調べますと、個人・団体・官職のしるしとして文書に押し、その責任や権威を証明するもの、でした。個性とは少し意味が離れているように思います。一方、印を “ しるし ” と考えると別の意味が浮上してきました。
 今回は長くなりましたのでこの続きは次回はとします。

  例外の話 第24回目 【院長】 2018/12/03
 例外の話 第24回目(最終回)です。
 前回は地球上に例外は存在しない、例外は客観的世界(自然界)には存在せず人間が作り出した主観的な考えではないか?という話でした。もしそうなら自然界では例外と考えられる一例一例はただの例となります。これまで時間をかけて例外について考えてきましたが、個人的にはとりあえず、例外とは人間が考え出した考え、と結論します。ただ、人間社会には例外は存在しますので簡単にその存在を否定したり、無視することは出来ません。今回で例外の話は終了しますが、個人的には、今後もさらに深く例外について考えて行きたいと思っています。これまで長らく例外の話におつきあいして頂き感謝申し上げます。
 さて、今年も残り少なくなりました。この1年を振り返ってみますといろいろなことがありました。なかでも横浜市立大学データサイエンス学部の汪教授との共同研究は論文までには至りませんでしたが充実した討論が出来たと感じています。いまはやりの人工知能 (AI) についてですが、汪教授とは討論を通じて、AIの発展には統計学的を背景とする数学的な裏付けが欠かせない、という認識で一致しています。AIの技術的な発展には目を見張るものがありますが、発展を支える数学的な発展が求められています。医療分野にもAIはどんどん進出しています。臨床診断にもAIが活躍する時代がやって来そうです。Real world data と言われる、医学分野のあらゆるデータを全て活用する統計学は今後注目されそうです。私たちも来年には更なる進歩を遂げたいと思っています。

  例外の話 第23回目 【院長】 2018/11/01
 例外の話 第23回目です。
 今回は再度例外そのものについて考えてみます。これまでさまざまな角度から例外について考えてきましたが、基本的には例外の存在を認め、例外は発展性を包含していると考えてきました。だから例外は大切な存在、とも述べました。一方、第18回の例外の話では、地球上では無限の可能性があり、無限の中では例外は存在しないのではないか、もしかしたら例外は私が勝手に考えていただけかもしれません、無限の世界に例外は存在しない、と考えると少し不気味な話になりますね、と書きました。さらに、第22回の例外の話で、Real World Dataについて考察した時に、統計解析に用いる患者さんは例外なく全ての患者さんが対象になる、とも書きました。無限の世界やReal World(現実)とはこの地球上の世界に他なりません。つまり、実際の現場(現実の世界)について考えるときには、例外は存在しないのではないかと思われます。この現実の世界、つまり客観的な世界には例外は存在しないとなると、例外は人間の思考が作り出した主観的な考えではないか、思うようになりました。例外は人間の思考の産物と言うことでしょうか。それなら、思考の産物、例外には何か存在理由があるでしょう。区別、差別、誤差、違い、特徴、特長、ずれ、ゆらぎ、相違などと何となく関連しているような、いないような感じがします。統計学で使う有意差は例外という範囲を設定しなければ生まれない考えでしょう。
 今回は例外とは人間が作り出した主観的な考えではないか、という話でした。

  例外の話 第22回目 【院長】 2018/10/12
 例外の話 第22回目です。
 今回は例外そのものを考えるのでは無くて、最近話題のReal World Evidence (RWE)について考えます。例外は少しだけ後半部分に登場します。
 ところでRWEとは何でしょうか。臨床医学の分野では実臨床データ(Real World Data:RWD)に基づく解析結果(証拠)と訳されているようです。実臨床とは実際の臨床現場のこと、例えば外来、入院、職場の検診、人間ドックあるいはスポーツジムなどが相当し、Real World Dataはそこから得られる人間に関するあらゆる種類のデータを意味します。例えば外来患者さんから得られるデータといえば身長、体重、年齢、性別、血圧、家族の様子、疾患名、飲んでいる薬、体調、血液検査結果、画像診断結果(X線検査、MRI検査、心電図など)、薬の副作用、趣味、喫煙状況、飲酒状況など沢山有ります。これらは入院患者さん、人間ドックを受けた人からも同様に得られますし、スポーツジムに通っている人からは血圧、体重、趣味などでしょうか。
 これまでの臨床試験のデータといえば、臨床試験の性格に見合う患者さんや健常者が対象でした。その人たちは限られた範囲の年齢、性別、病気の種類や状態、合併症の有無、人数など厳しくチェックされています。そのため解析結果は一番信頼性の高い証拠として認識されていました。例えば高血圧症患者さんへの薬の効き目を調べる臨床試験では対象となる患者さんの年齢は絞られます。しかし、実際の臨床現場では高血圧症の患者さんは臨床試験の時と比べ若かったり、オーバーしていたりと様々です。ですから限られた範囲の患者さんから得られた薬の効果はそれ以外の患者さんに使用する時には明確ではありません。おそらく大丈夫だろうということで使用することになります。そこで実際に年齢が若い患者さんやオーバーの患者さんへの効果を調べて見ようという発想が生まれたのです。それが実臨床のデータ、すなわちReal world Dataと言うことでしょう。ここでは例外なく全ての患者さんが対象となります。例外なく得られたデータは莫大な種類と数になると思われます。従ってそれを解析する理論はこれまでに無い新しい理論が求められるでしょう。おそらく全世界で研究が行なわれていると思います。私たちも乗り遅れること無くRWDに立ち向かいたいですね。Real Worldとは例外の無い世界ということでしょうか。

  例外の話 第21回目 【院長】 2018/09/03
 例外の話 第21回目です。 
 前回20回目では無駄とは何かを考えてみました。今回の後編では例外と無駄について考えます。その前に、もう一度復習します。goo国語辞典では例外とは、通例にあてはまらないこと、一般原則の適用を受けないこと、決まりや法則が及ばないもの、です。無駄とは役に立たないこと、それをしただけのかいがないこと、無益、です。これらの説明から、例外と無駄の関連性を想像するのは難しそうです。なんとなくですが、例外はアウトサイダー的、無駄は前回の話では役に立たなくても必要と考えましたが、役に立たないイメージが強いですね。双方ともネガティブ的な感じがします。
 そこで、「例外なんて存在しない」、と例外を否定してみました。否定してみたら不思議と例外を意識するような感覚、つまり「例外とは何だろう、といった感覚」が湧いて来るように思います。また、「無駄なんて存在しない」と無駄も否定してみました。すると「無駄とは何だろう、といった感覚」が湧き、無駄の存在感が出て来るように思います。双方とも存在感を増し、少し力強い感じになってきた。例外も無駄も否定してみると存在感が出てくるといった特徴が有りそうです。つまり、例外や無駄はその中に否定的な側面を持っていてそれを否定することによって肯定される、言わば否定の否定で肯定される、といった側面があるのでしょうか。例外と無駄に共通する意味ははっきりしませんが、双方とも否定されると拘束がはずれ、それぞれの特徴が地底から浮かび上がるように顔を出す、ように思います。
 茄子の花は千に一つの無駄がない。なすの花は一つも落下することなく(例外なく)全部実になるよ、と言うことです。

  例外の話 第20回目 【院長】 2018/08/01
 例外の話 第20回目です。
 前回は医療分野でのAI活用の難しさについて少しだけ浅く考えました。読者の皆様からは難しくてよくわからなかった、と不評でした。お伝えしたかったことは医療分野ではAIは医療技術に対しては貢献すると思うが、診断には難しい、と言いたかったのです。しかし、その困難を乗り越えていつかは新しい理論が誕生すると思います。そこに私たちも貢献したいですね。私たちと言いましたが、さて私と誰でしょうか?汪先生です。汪先生は千葉大学理学部数学科から今年の4月に新設された横浜市立大学データサイエンス学部へ移られました。これまで同様教授として活躍されておられます。データサイエンス学部は日本ではまだ新しい学部で、これまで同様統計学を応用してビッグデータを解析したり、さらに新しくベイズ統計学を応用したデータ解析法の開発を目指しているようです。まだ誕生したばかりの学部に期待したいですね。汪先生と私とのセミナーも定期的に行なわれています。研究は、以前当院の近況報告でお話ししました医学と数学を結合させた医療統計学です。今でも研究は進行中で、私たちの新しい統計学も前進させたいと思っています。
 さて、今回は無駄と例外のお話の前編です。前編では無駄とは何かを考えます。後編では無駄と例外について考えます。では、無駄とは何でしょうか。いつものようにgoo国語辞典で調べてみました。役に立たないこと。それをしただけのかいがないこと。また、そのさま。無益。例として「無駄な金を使う」、「時間を無駄にする」。ネガティブな感じですね。一方、「いま無駄なことでもいつか将来役に立つ」、「人生に無駄なんて一つも無い」といった例もあります。粘り強いポジティブな感じです。食いついたら離れないスッポンみたいですね。
 今回の前編では、無駄とは役に立たなくても必要なものと考えておきましょう。では次回の後編にご期待下さい。

  例外の話 第19回目 【院長】 2018/07/02
 前回は無限の世界には例外が存在しないかも、というお話しでした。
 今回は再度例外とAIです。一般にAIの学習方法はニューラルネットワークと呼ばれる人間の脳の神経細胞の働きを真似した方法でもあります。神経細胞には、外界からの刺激(例えば痛み刺激)が皮膚の神経細胞を刺激し、その刺激が脳の神経細胞に伝わるためには、それぞれの神経細胞が興奮する(刺激をつたえる)必要があります。神経細胞の興奮には、閾値(いきち)が存在し、それを超えないと興奮しない、という仕組みがあります。つまり閾値というハードルです。ハードルを超えればOK、超えられなければゼロとなります。AIはいろいろな情報を統合して0か1を判断します。この判断する仕組に統計学が使われます。
 最近、畳み込みニューラルネットワークと呼ばれるAIが登場し話題となっています。画像認識、例えば顔の認識などに応用されています。この方法は得られた複雑な情報を畳み込み層、プーリング層と言った何層かの篩いに掛けて単純化し結論を導くものです。臨床医学でも畳み込みニューラルネットワークを用いて多数の眼底写真から特定の眼科疾患を診断出来るような研究が行なわれています。その結果、経験を積んだ医師と同じくらいの診断精度があげられています。
 確かに、画像認識のように複雑から単純へと進むことが出来る分野では畳み込みニューラルネットワークは有効だと思います。しかし、現実の臨床医学では多数の例外(個人毎の違い)が存在します。少し複雑な症状であっても個人の違いによりさらに複雑な症状へと変化します。例えば、風邪の症状である咳を考えてみます。ある患者さんでは咳に痰が絡むけれど別の患者さんでは痰は絡まないで鼻水がでる、というように患者さんごとに咳に随伴する症状が変れば、風邪の診断は単純化するのではなく複雑化することになります。医療分野では例外の存在によって病気の診断は個別化(例外化)し複雑化すると考えられます。従って、畳み込みニューラルネットワークというAIは医療分野では有効活用しにくいのではないかと思います。
 今回は医療分野でのAI活用の難しさについて少しだけ考えました。

  例外の話 第18回目 【院長】 2018/05/28
 これまでいろいろなテーマで例外について考えてきましたが、基本的には例外の存在を認め、例外は発展性を包含していると考えています。だから例外は大切な存在です。
 さて今回は例外と無限のお話しにしました。難しそうなテーマですね。皆さんは無限について考えたことはありますか。あまり真剣に考えると頭が痛くなり、精神的に追い詰められそうですので軽く考えましょう。つまり無限とは限りが無いこと、永遠にどこまでも続くこと、などと考えるのは如何でしょうか。そんなの当たり前だ、と叱られそうです。しかし、当たり前が重要です。当たり前の感覚で考えることが無難だからです。いきなり難しいことは考えられませんので。 
 当たり前の感覚で無限について考えると先ほど述べた説明になりますが、さらに無限とは「考えられる全てのことが起こる世界」とも言えませんか? 良いことも悪いことも全てです。例えば、地球上の出来事を考えてみましょう。地球が誕生してから起こった自然現象や生物の進化、人類の進歩などは無限に考えても数え切れない様々なことが起こった可能性があります。このことはしっかり実証しなければなりませんが、とりあえず大まかに考えて下さい。そう考えると地球は無限の可能性に場所を提供してきたとも言えませんか? では例外と無限はどんな関係でしょうか。 
 「例外なく全て・・・」という言い方があります。例えば、「例外なく全ての生徒に学校給食を提供します」とか。「例外なく全ての人間には限られた寿命があります」とか。もっと直接的な言い方をすれば「例外なく全ての生命は死にます」とか。地球上では考えられる全てが起こりうる、と考えると地球上には例外が存在しないのでは?と疑いたくなります。これまで例外の存在は無くては成らない必須で無視できないものと考えてきましたが、例外の存在は私が勝手に考えていただけかもしれません。無限の世界に例外は存在しない、と考えると少し不気味な話になりますね。
 不気味ですので、今回はここまでとして、この続きはまたどこかでお話ししたいと思います。

  例外の話 第17回目 【院長】 2018/05/01
  今回は例外と個性について考えてみます。これまで、第7回目に仲間はずれとしての例外、第9回目に例外と独創性について書いてきました。復習になりますが、goo国語辞典では、例外とは、通例にあてはまらないこと。一般原則の適用を受けないこと。決まりや法則が及ばないもの。「―として扱う」「―を設ける」「―的に参加を認める」という説明がありました。また、例外とは例の外で通常にあてはまらない、またはあらかじめの想定から外れたものとも言えます。つまり想定外です。
 一方、個性とは何でしょうか。おなじみのgoo国語辞典では、個人または個体・個物に備わった、そのもの特有の性質。個人性。パーソナリティー。使用例として「個性の尊重」「仕事に個性を生かす」「個性が強い打撃フォーム」。などがあります。さらに、2016年に実施された「あなたの言葉を辞書に載せよう。2016」キャンペーンの「個性」への投稿から選ばれた優秀作品には大変機知に富んだしかも説得力のある個性あふれる言葉が並べられています。興味がありましたら、グーグルで「あなたの言葉を辞書に載せよう。2016 goo国語辞典」で「個性」を調べて確かめて下さい。もし私が自分の言葉で個性を表すとすれば“色とりどりに咲き乱れるパンジーの畑”とします。パンジーにした理由はただパンジーが好きだからです。
 さて、例外と個性の関連は何でしょう。それは双方が包含する「必然性」ではないかと考えます。つまり、双方とも個体や組織において無くては成らない必須で無視できないもの、と考えます。別の言い方をすれば、個体や組織を特徴づけるもの、と言えないでしょうか。例外は個性の表現型とも言えそうです。例外と個性の関連については、まだまだ個人的で抽象的な言い方ですが、今後両者の関連をさらに深めたいと考えています。

   例外の話 第16回目 【院長】 2018/04/01
 今回は例外と差別の話です。
 例外の話第12回目で例外を受け入れることの大切さを考えてみました。その中で例外を受け入れるために寛容性と忍耐力が必要では、と述べました。さらに学校の先生には“ちょっと変わった子”を受ける寛容性と忍耐力を持って欲しいですね、と締めくくりました。その時ははっきり述べなかったのですが、“ちょっと変わった子”とは例外を意味していました。このブログを目にした読者からコメントを頂きました。その方は小学校の先生です。“ちょっと変わった子”という表現は差別的な意味を含むので注意して使った方が良いですよ、というコメントでした。確かに、“ちょっと変わった子”を通例にあてはまらない変わった子と、差別的に考えることも出来ます。そしてブログでは“ちょっと変わった子”を例外と考えたのですから、例外は差別に繋がると考えるのは当然でしょう。実は、これまで例外についてさまざまな角度から考えて来ましたが、例外の負の側面は考察しませんでした。今回、例外は差別に繋がるという指摘は大変重要と受け止め、私自身さらに慎重に例外を考えるきっかけとなりました。そこで折角ですから“ちょっと変わった子”の意味を少し再考したいと思います。いろいろ考えた結果“ちょっと変わった子”とは“個性の豊かな子”にしたいと思います。例外を個性の現れと考えてみました。そこで次回は例外と個性のお話しにしたいと思います。例外のもつ差別感を少しでも減らしたいと考えています。

   例外の話 第15回目 【院長】 2018/03/01
 今回は例外とAIについて考えてみます。最近話題の多いAI(artificial intelligenceの略で人工知能)です。これまでAIの研究には波があり今回は第3番目の波のようです。それもこれまでで一番大きな波と言われています。大きな波となった理由は深層学習(deep learning)という手法が開発されたこと、さらに計算能力の向上つまりコンピュータの進歩があったためのようです。どちらも私の専門外ですので詳しい説明は出来ません。しかし、今回例外とAIを取り上げたことにはそれなりの理由があります。その理由はAIに統計学が使われていることです。さらにAIには例外が必要と思われるからです。使用される統計学は経験を取り込んで学習し、たくさん存在する選択肢の中から、最も高い確率を示す選択肢を選ばせる統計学です。例えば95%の可能性を示すものであれば、それを他の選択肢より価値のある選択肢としてお勧めするでしょう。その時、最も高い確率以外の選択肢はどこに行くのでしょうか。残念ながらそれらは例外として葬り去られるのではないでしょうか、と言うより葬り去られます。AIを実行するのは非情なコンピュータですから人間のように暖かで細やかな配慮はしません。AIの発達によってAIは人間を超えられるか、と言った議論がありますが、もちろん人間を超えることはできないでしょう。AIが進歩すればするほど人間のすごさが分かるとも言われています。
 では、人間らしいAIを作るにはどうしたらよいのでしょうか。あくまでも個人的な考えですが、AIの中に葬り去られた例外を組み込ませたらどうでしょうか。つまり、あえて例外を組み込ませて選択の幅を作るのです。選択の幅を作ることでAIを迷わせるのです。迷い、これこそ人間らしさとは思いませんか。AIが迷った時こそ、人間から示された問題が複雑でしかも重要だぞと判断させ、AIには解決できないと悟らせるのです。迷ったその時、つまり暖かで細やかな配慮が求められる時こそ人間の出番です。人間の特徴の一つ、迷いをAIに持たせましょう。これからのAIが活躍する時代に、例外を組み込ませたAIを作ることが重要と思われるのですが、如何でしょうか。皆様の判断にお任せ致します。もし、その考えは面白いと言って頂けたなら具体的な方法を考えます。今、研究中の新しい?統計学を応用したいですね。

  例外の話 第14回目 【院長】 2018/02/05
 今回は例外と反例について考えてみました。
 “はんれい”は反例の他に凡例、判例、犯例、範例などがあります。今回は反例です。goo国語辞典によれば、反例とは、その定義や命題に当てはまらないことを示す例、仮説に対する反例、とありました。
 具体的に、命題と反例を考えてみました。
 命題: すべての犬は日本犬である。
     反例としては沢山あげられますね。
 命題: 日本人はすべて右利きである。
     これも反例は簡単ですね。
 命題: すべての女性は優しい。
     これは如何ですか?
 命題: すべての男性は気が優しくて力持ち。
     さてこれはどうでしょう。
 こんなに簡単に命題を作って良いのでしょうか。命題に“すべて”を入れれば反例は簡単に挙げられそうです。
 今回反例を取り上げた理由をお分かりでしょうか?それは両者に似たところが有る、と考えたからです。反例は全体からすれば一部分の例に相当します。例外も全体からすればほんの一部分です。一部分と言うところが似ていると、単純に考えました。しかし、例外と反例はまったく同じではないようです。以前、例外は想定外のこと、と説明しました。それに対して反例は想定内と言えます。少し復習になりますが、例外の話第1回で特例について考えたことがあります。そこで特例とは特別な例、特別な決まりや法則のこと。あらかじめ想定して決めた例と説明しました。この意味で反例は特例に近いかも知れません。例外と反例との共通性と相違についてはまだまだ深める必要があり今後の課題ですが、今回はこの程度とします。
 次回は例外とAIについて考えてみます。

  例外の話 第13回目 【院長】 2018/01/09
 新年(2018年)明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。
 例外の話13回です。
 今回は例外と思われる事柄を日常生活の中に探してみようと思います。
 日常生活の中での例外、つまり非日常的な例を探します。5つの節句(七草の節句、桃の節句、菖蒲の節句、七夕、菊の節句)、お盆、夏祭り、クリスマス、お正月、入学式、卒業式、さらに出生、成人式、結婚式、葬式といった通過儀礼、その他国民の休日などです。この日には美味しいものを食べたり、決まった行事をしたり、普段とは違ったことをしますね。日常の中の非日常です。これらは例外の日と考えられ、毎年決まった日もあれば、人生で1回きりの日もあります。では、決まっていない例外の日は何でしょうか。そうです。ボーナス日は給料日の例外ですね。しかし、これもほぼ決まっている方も多いでしょう。4年に1度の閏年(うるうどし)は如何でしょうか。これもほぼ決まっています。決まっていない例外の日は成人式以外の通過儀礼の日ですね。もし、これらの日が決まっていたら少し不気味ですね。発想を変えて、スーパーの突然のタイムセール、バーゲンセールや特売日は如何でしょうか。赤信号を無視して渡るときは例外に入るでしょうか。皆さんも探して下さい。
 次に自分の中の例外を探してみようと思います。悪いことでは病気にかかること、寝坊すること、遅刻すること、誤診することなどの失敗例があります。これでは人生が暗くなるので、良いことも探してみましょう。しかし、これがなかなか見つからないのです。なんとさみしい人生を送っていることでしょうか。それでも頑張って探すと、スーパーでおいしそうな牛肉を見つけた時、駅ビルの中で美味しいお店を見つけた時、本屋で面白そうな本を見つけた時、ディズニーランドに行った時、自分では参加しませんがハロウイーンの仮装。特に、ディズニーランドは非日常の世界を感じます。気分転換には良いですね。ハロウイーンの仮装は仮装で自らを隠し自分を主張する気分ですね。良く探してみると意外にも例外は身近なところに、また自分の中にも存在するのですね。
 今回、例外は意外と身近に存在するのでは、というお話しでした。

  例外の話 第12回目 【院長】 2017/12/07
 例外の話12回目です。
 今回は例外を受け入れことの大切さについてです。
 第7回の例外の話で仲間はずれとしての例外について書きました。また、例外であっても、その特長が生かされ、角頭を現し、のびのびと才能を伸ばし、活躍できる柔軟性のある集団や社会は発展的で魅力的ですね、とも書きました。
 もし、特長ある例外を仲間はずれとして排除してしまったら、折角のすばらしい才能が生かされません。それは社会の損失です。では、例外を受け入れる柔軟性のある集団や社会とは何か具体的に考えてみましょう。まず集団や社会の具体的な場所としては家庭、学校、職場、町会などの地域社会、そしてもっと大きな村、町などの社会です。実際に影響力を持つのは家庭、学校、職場でしょうか。中でも家庭、学校の存在は大きいでしょう。職場でも、トップやトップに近い人には特に必要な気がします。
 では柔軟性とは何でしょう。個人的な見解ですが、それは例外を認めて受け入れる寛容性と考えています。寛容とは、goo国語辞典によりますと“心が広くて、よく人の言動を受け入れること。他の罪や欠点などをきびしく責めないこと。また、そのさま。”とありました。私にとっては耳が痛くなる説明です。日頃の行いが問われますね。また、寛容に加えて忍耐力も必要ではないでしょうか。寛容を支えるには忍耐力も求められると思います。
 寛容性が求められる場所としては家庭ですね。つまり子供にとっては両親、兄弟、姉妹が大切な存在です。特に寛容な両親の存在が重要であることは論を待たないでしょう。さらに学校の先生にも“ちょっと変わった子供”を受け入れる寛容性と忍耐力を持って欲しいですね。
 今回は例外を受け入れることの大切さについての個人的な考察でした。

  お薬の話 ~ ヒルドイド 【スタッフ】 2017/11/10
 薬剤師らしいことを書いてみようかと考えていて情報収集に明け暮れご無沙汰してしましました。
 ブログが「例外の話」ばかり続いていて肩がこってきていたかもしれませんね。そこで気晴らしといいますか、気張らずに読めるものを書いてみようと思います。
 では早速、今回は「ヒルドイド」という塗り薬をテーマにしてみます。テレビなどでも騒がれ始めていて話題になっているので、私もそれに乗っかる形で薬剤師目線からお伝えしようと思います。ヒルドイドは血行促進・皮膚保湿剤として製薬会社のマルホさんが作っている塗り薬です。対象となる皮膚疾患に対して医師の処方で使うことのできる医療用医薬品です。クリーム、ソフト軟膏、ローションと3タイプあります。成分は”ヘパリン類似物質”というもので、皮膚の悪いものを早く治すような強い効能があるわけではなく、皮下の血流を良くして皮膚の回復力を手助けしたり、水分を皮膚にとどめて保湿するといった緩やかな作用を持っています。
 ですので本来は特別視するお薬ではないのですが、最近誤った方向で注目を集めてしまっています。どういうわけか”美容効果”があると広まり、化粧品感覚で使う女性が増えているというのです。これが問題となっています。理由を想像できるでしょうか?
 結論から言いますと、3つの問題があります。それは適応症の問題、医療費の問題、副作用の問題です。まず、適応症とは薬の効果が確かめられていて使うことができる病気のことです。ヒルドイドでは美容効果という記載は添付文書(医療者向けの説明書)には載っていません。そもそも美容は病気ではありません。病気ではないのに薬を使うことは医療法上認められないことです。これは次の医療費の問題にも関わってきます。医療費とはつまり医療保険のことです。病院にかかるときに保険証を提示すると支払う金額が一部だけで済みますよね、それです。病気を治療するためのお金の心配を減らしてくれる日本の素晴らしい仕組みなのですが…ヒルドイドは医師の処方が必要なので保険証を利用する形になります。先にも書きましたが、本来であれば病気でないことには薬は使えませんし、医療保険も病気の時のためのものです。美容目的ですから使用する量が多くなり、処方量の多さが問題になっています。例えばソフト軟膏25g入りのチューブタイプを何十本も要求するといったことが見受けられるようです。10本処方したらいくらくらいなのか計算してみますね。1本592.5円×10=5,925円 保険証で3割負担なら支払う金額は1,778円、残りの4,147円は医療保険からです。これを際限なくやっていたら医療費は膨らむばかりです。この医療保険の財源はご存じでしょうか?私たちの保険料と税金です。病気では無い人、つまり美容に沢山使われるなんて悲しくなります。
 そして3番目として、むやみやたらに多量に使っていては副作用が出る心配が出てきます。ヒルドイドは緩やかな作用で安全性は高いとは言え、副作用はゼロではありません。適切な使い方をしても副作用が出てしまった場合は救済措置がありますが、多量に使った場合には自己責任ということになりかねません。
 こうした問題に対して、今後は対策が講じられることになりそうです。医療保険において処方量の制限がされることが予想されます。皮膚疾患で適切に使っている方々が影響を受けるのではないかと不安の声を見受けますが、その方々には影響を及ぼさないので安心してほしいです。最後に、美容効果があるかどうかは私としては否定も肯定もしませんが、そういったことで使用したい場合は同じ成分のものがドラッグストアで販売されていますのでそちらを購入することが望ましいでしょう。
 
  例外の話 第11回目 【院長】 2017/11/06
 例外の話、第11回目です。
 今回は例外中の例外についての話です。
 第5回目の例外の話で、例外の割合は20回に1回位 (5%) あるいは100回に1回位 (1%)ではないかと書きました。従って、例外中の例外になると、それぞれを2乗して、400回に1回か10000回に1回位の確率でしょうか。この確率で起きる自然現象を探してみました。気象庁によりますと2016年度の国内で発生した震度1以上の地震の発生回数は6587回、そのうち震度5以上は33回でした。この地震の確率は約200回に1回の割合です。震度6以上は15回で約440回に1回となります。
 また、ネットで調べたのですが、極めて希(ごくまれ)に起こるL2地震とよばれる地震があります。これは500年に1度位で起こると言われています。この地震の規模などをもっと知りたかったのですが詳しい説明はありませんでした。1586年の天正地震はM8からM9程度と推定されL2地震に相当すると思われます。今回の東日本大震災はM9でしたからL2地震相当と言えます。ちなみに、まれに発生する地震がL1地震、L2を上回る巨大地震をL3地震と言うようです。おそらくL3地震は10000年に1回位でしょうか。例外中の例外の地震はL2地震かL3地震に相当すると思われます。しかし、近い将来発生が予測されている南海トラフ巨大地震はM8かM9程度と言われています。もし、日本周辺で短い間隔で巨大地震が起こるとすると、近年の地球、特に日本周辺には異常事態が起きていると言うことでしょうか。
 一方、人間についてはどうでしょうか。天才の現れる頻度は将棋界では400年に1度のようです。先日、将棋界に現れた藤井聡太君は四百年に1度現れる天才棋士とNHKの特集番組で言っていました。天才棋士の出現頻度はもっと多い気がします。彼はおそらく天才中の天才ではないでしょうか。つまり例外中の例外です。
 例外中の例外をさらにいろいろな分野で調べたら面白いかも知れません。今回は例外中の例外についてほんの少しだけ考えてみました。

  例外の話 第10回目 【院長】 2017/10/16
 今回は例外と誤診についての話です。
 誤診についての説明は必要ないと思います。あまりあってはいけないことです。いや、決してあってはいけないことです。しかし、医師も人間ですので完璧ではありません。間違いを犯します。つまり、誤診はあってはならない間違いと言うことです。
 では間違いはどうして起きるのでしょうか。大きな要因としては二つ考えられます。一つは知識や経験不足です。これらを自覚しないまま診断してしまう結果、誤診が起こります。もう一つは自信過剰です。油断が生じて細かい診断過程を飛ばしてしまいます。その結果、診断の方向や内容を間違える、と言うことになります。端的に言えば手抜きの結果です。個人的なことですが、どちらも経験があります。今となっては取り返しのつかないことですが、反省して今後の診療に生かすように努力しています。
さて、もう一つ誤診の要因を考えてみました。それは病気の診断が難しい時です。希な病気、これまで知られていない病気の場合です。つまり、例外です。例外の病気に遭遇したときは、診断が非常に難しくなると思います。そのため誤診に結びつきやすいのです。結果として誤診では容認されません。焦らずじっくり腰を据えて、病気の細部に切り込み、時には新しい発想で取り組むことが必要と思います。例外には思慮深い慎重な対応が必要ですね

  例外の話 第9回目 【院長】 2017/09/12
 今年の夏は7月が猛暑、8月が長雨でしたので少し体調を崩された方も多かったのではと思います。皆様はいかがでしょうか。 
 今回は例外と独創性についてお話しします。
 その前に、例外と少数例について第4回目でお話ししました。その中で“小数例はそれ自身固有の特徴を持っていると考えた方がよいかもしれません。そうなると少数例はかなり例外に近寄った例と考えられます。ほとんど同じと考えておきましょう。少数例を説明するのは意外に難しいかもしれません。今後もっと深く考える必要があるようです”、と話しました。さらに第5回目で少数例について“しっかりした説明は出来ませんが、少数例とは例外とまでは言えないが通例の中で特徴の有る集団と考えておきます。”ともお話ししました。
 今回は、まず少数例について再考します。第4回目で“少数例とはそれ自身固有の特徴を持っていると考えた方が良いかもしれません”という意味のことを述べましたが、固有の特徴とは独創性と考えても良いかもしれません。ただし、少数例イコール独創性ではなく、独創性イコール少数例という意味です。かの著名な湯川秀樹氏がNHKテレビ番組の中で“独創性は常に少数で決して多数ではない”と述べていました。その通りだと思います。次に少数例は例外に近寄った例と考えると、例外は独創的な発想を持つ例と考えても良さそうです。ただし、例外的な発想が全て独創的とは言えませんね。逆に独創的な発想は例会的な発想とは言えそうです。現在取り組んでいる統計学も独創性が求められます。たとえ例外となっても独創性の追求は止められませんね。

  例外の話 第8回目 【院長】 2017/07/25
 こんにちは、例外の話の第8回目です。今回は例外が例(通例)になる可能性の話です。
 その前に、例外について少し復習します。例外の話の第1回目で述べましたが、Goo国語辞書によると、例外とは通例にあてはまらないこと。一般原則の適用を受けないこと。決まりや法則が及ばないものと説明されています。つまり、例外とは想定外のことです。
 皆様は“鳥肌が立つ”の使い方について考えたことがありますか。以前から“鳥肌が立つ”とは寒さ、恐怖などによって皮膚に鳥肌が現れること、という意味です。最近、といっても5,6年前に、野球中継で解説者が選手のファインプレーに“鳥肌が立った”を使っていました。最近では演劇、映画などの芸術でも、感動したときに“鳥肌が立った”という表現を聞くことがあります。私は“鳥肌が立つ”を感動表現とは思っていませんでしたので、違和感を覚えました。誰が何時から“鳥肌が立つ”を感動表現として使用したのかはわかりませんが、どんな理由で使用したのか聞いてみたいです。勝手な解釈ですが、“鳥肌が立つ”は興奮した時や神経が高ぶった時の表現と思えば良いかもしれません。これなら恐怖の時でも感動の時でも使えると思います。感動したときの使用法は私にとって想定外でした。おそらく一般的にも例外的な使われ方だったと思います。しかし、いまではごく普通に感動表現として用いられているようです。感動表現の“鳥肌が立つ”に対する違和感は薄れています。
 今回は例外が例(通例)になった、と思われる話でした。

  例外の話 第7回目 【院長】 2017/07/14

 こんにちは。今回は例外の話の第7回目です。
 例外の話第3回目で、例外は集団の中では違いが目立ち、浮いた不安定な存在となる、と書きました。そのため集団の中で安定を求めるためには例外的な要素は出来るだけ少なくした方がよいかもしれません、とも書きました。他の人と違いが目立った存在は、周囲に好印象というよりは違和感を与え易くなると思います。違いが目立った存在であっても静かに大人しくしていれば、まだ良いかもしれませんが、その違和感が角頭を現し存在感を増してくると、出る杭は打たれる、ことになりそうです。上からばかりか仲間からも煙たく思われるかもしれません。頭を叩かれて、そのうえ仲間はずれにされたりしたら、気分悪いですね。出来るだけ例外的な要素を薄くしているほうが安全ということでしょう。あくまで一般論としてですが、日本の社会は周囲に気を使って、その場の雰囲気を察知し、その場に溶け込むことが求められます。少し前にKY(空気読めない)という略語が流行りました。空気読めないとは、周囲に対する状況判断が鈍く、配慮が足りない無神経なことを意味します。そのため集団の中では、KYの人は違いが目立ちますね。例外です。例外であっても、その特長が生かされ、角頭を現し、のびのびと才能を伸ばし、活躍できる柔軟性のある集団や社会は発展的で魅力的ですね。今回は仲間はずれとしての例外を考えてみました。ではまた。

  次は私からの報告です 【スタッフ】 2017/06/12
 ご無沙汰している間に、どうやら梅雨入りしたようですね。お伝えしなければならないこともあるのにのんびりしすぎていました…
 まずは、この度正式に、日本糖尿病療養指導士になりましたことをご報告致します。これからはこの資格により当院の発展に貢献できるということで気の引き締まる思いです。
 もう一つ、6月から診療日時が変わったことにお気づきでしょうか?これまで土曜日は隔週でしたが、毎週土曜午前を診療することと致しました。第2,第4土曜日に間違えて来ちゃった、なんてことはもうありませんよ!
 また、診療開始時間も午前午後ともに30分早めています。これまで通り予約制にはしていませんので、よりご都合に合わせやすくなれば幸いです。
 最後にここだけのお話しをちょっとだけ。
 「午前と午後どちらが空いていますか?」とお問い合わせ頂くことがあります。現在のところ、比較的午前中の方が混み合うことが多いように感じます。時々は午後が忙しくなることもありますが。
 後はお天気の影響や周囲が休診している木曜日などは少し動向が変わりますね。
 ご参考までに……

  近況報告 【院長】 2017/06/08
 こんにちは。しばらくブログを更新しておりませんでした。今回は“例外の話“はお休みとし、当院の近況をご報告したいと思います。
 当院では毎月一回糖尿病勉強会を行なっています。これまで25回行ないましたが、最近の24回(今年の5月)、25回(今年の6月)は管理栄養士さんに担当してもらいました。この方は他の病院にお勤めで、そこで管理栄養士として働いていらっしゃる方です。普段は病院で患者さんの栄養指導を行なっております。当院での勉強会に興味をもって22回頃から参加されていましたが、せっかく資格をお持ちですので講師をお願いしましたところ快諾して頂きました。2回の勉強会では食事療法についてお話して頂きました。基本的な栄養素の話から食品交換表の話まで、患者さんの感想は、分かりやすく理解しやすかった、とのことでした。大変勉強になり今後の治療に活かせるとおっしゃっていました。また、機会を作ってお話し頂くことにしました。次回は7月2日(日)で、私が担当します。日時、内容はホームページに掲載されています。
 次に、統計学の研究の進行状況のご報告です。約1年半前に千葉大学大学院理学研究科数学・情報数理学コースの汪先生と協同研究を開始しました。これまでに、汪先生は昨年のスペインで開催された2016年国際計算機統計学会(英語で発表)、2017年度日本計量生物学会(今年の3月名古屋)で発表されています。現在は論文を執筆中です。数理統計学的とベイズ統計学を融合させ、データ解析に新しい手法(論理)を提案しているものと理解しています。数学的にはかなり高度ですので、ここで私が易しく解説できるものではありません。この研究を踏まえて私は医学分野、特に糖尿病の診断に新風を吹き込みたいと考えています。そこで私も論文執筆に着手しました。当分の間は文献検索や医学と数学を結合させた論理構成に頭と時間を使うつもりです。
 次回は例外の話に戻ります。 

 例外の話 第6回目 【院長】 2017/03/13
 今回は例外の第6回目です。前回は例外の頻度について考えてみました。今回は例外とめったにない症例(患者さんのこと)について考えてみます。
 臨床医学では患者さんを症例 (ケース、case)と言います。一般的によく遭遇する病気の症例はcommon case と言い、めったにない病気の症例をrare case と呼んでいます。Rare caseは症例報告の対象となります。症例報告とはめったにない患者さんのこと(症例)について病気の頻度、発症過程、特徴、診断、治療などを纏めて報告することです。
 めったにしか経験することのない症例は、症例報告をすることでその特徴を他の医者が間接経験し、次にその医師が同じような症例に遭遇した時、参考になることを期待して行われます。めったにない症例を報告することにより、他の医師と知識を共有できることになります。報告する医師にとっては、このようなまったにない症例は診断が難しいため、診断に至るまでに深い思考、幅広い医学的知識や特別な検査を必要とし、時間、労力、気力を必要とすることが多いのです。つまり、病気を診断するまでの過程が医者にとって大変勉強になるため貴重な症例と考えら、研修医や経験の浅い比較的若い医師が報告をすることが多いのです。また、症例報告は患者さんひとりひとりを大切にする心構えを学ぶ機会にもなります。報告を読む医師にとっては楽をしてめったにない症例を学べることになります。先ほど、症例報告は若い医師がすることが多いと言いましたが、経験豊富な医師にとっても症例報告は重要で有り、生涯続ける必要があると考えられます。その意味で医師は生涯研修医と言えましょう。私は60歳を過ぎてから症例報告を行ったことが有ります。少し薹が立った医者ではありますが、生涯研修医の気概を示したかったからです。
 今回は例外的な症例(rare case)が役に立つことを考えてみました。

 春が来る前に 【スタッフ】 2017/03/06 
 春の足音が聞こえてこないかと、耳を澄ましている今日この頃。花粉が舞い広がる騒がしさで聞き逃してしまいそうです。

 まず一つ報告で、先日、糖尿病療養指導士の試験を受けてきました。結果はもう少し先になりますが、良い報告ができればいいなと思いつつ、あとは待つほかありません。

 さて、書き出しでもふれましたが、花粉症がある方にとってはつらい時期になってきたようですね。私はならずに済んでいるので人ごとのようになってしまっていますが。花粉症のお薬をもらいに来る方が増えてきているので、そういう時期が来たんだなぁと把握している次第です。
 そんな中で、「いつもは耳鼻科でもらっているんだけど、内科でも出してもらえますか?」と聞かれることがあります。花粉症は鼻や目の症状が強いために、そちらがメインの診療科へかかっているケースはよくあります。答えは、内科もOKです。何の問題もありません。花粉症は、花粉に対するアレルギーですので、アレルギーは内科の診療範囲になります。
 そういうわけで、花粉症で当院を受診されている方は何人もいます。このような形を通して、かかりつけの医院となるきっかけにしてくれたらいいなと思っています。

 インフル注意報 【スタッフ】 2017/02/03
 あけおめから早1ヶ月が経ちますね。私がここに書くのはそれ以来で…月に1度は書くようにしないとな!
 さて本題に入りますが、冬もまっただ中となり、インフルエンザの患者さんを当院でもちらほら見かけるようになってきました。インフルエンザの検査キットを常備しており、私はその検査のお手伝いもしています。ということは、私自身がもろにウイルスに接する機会が増えるんですよね。だからといってホイホイ感染していられるわけもなく。検査の都度手洗いし、帰宅後は手洗いうがいを欠かしません。一応ワクチンも接種済みですが、それは念のための保険みたいな。おかげで今のところ風邪すらも引いていません。このままの状態を維持していきたいですね。
 現在はインフルエンザAが猛威を振るっていますが、そろそろBの方も顔を出してきそうなので、3月くらいまでは気を抜かないようにしないとです。「手洗い・うがい」当たり前のことで、もはや耳タコな言葉かもしれません。だけれども、これが一番の撃退法で私のお墨付き。皆さんも習慣になるくらいやっておきましょう!!

 例外の話 第5回 【院長】 2017/01/13
 例外の話の第5回目です。
 前回の少数例の話は難しかったようです。しっかりした説明は出来ませんが、少数例とは例外とまでは言えないが通例の中で特徴の有る集団と考えておきます。
 今回は例外の頻度について考えてみます。頻度と言えば統計学です。統計学的には、おおよそ1% から5% に入る例を起こりにくい例と考えるようです。すこし幅がありますが、おおよそ100回に1回、あるいは20回に1回です。一般的には後者の20回に1回、つまり5%位が例外として考えられているようです。例外を感覚的に捉えるならば、あまり起きない珍しい事象と言えます。一般的には起こって欲しくない事象とも考えられます。しかし、反対もあります。宝くじを例にあげましょう。宝くじに当たるとは例外を引き当てることです。例外に賞金が付いているからです。高額の当選確率は20回に1回どころでなく、ずっと低くなりますが、こちらは起きて欲しい事象です。身近な例をもう一つあげましょう。お年玉年賀はがきの切手シートが当たる確率は、当選番号が下二桁の数字でそれが2個ですから百分の二となり五十枚に一枚となります。つまり2.0%です。
 余談ですが、私が医者になりたての頃、ある病院の院長先生が、良い医者は20人に1人位だよ、と言った言葉が記憶に残っています。よい医者をどう考えるかは一概には言えませんが、例えば病院の経営者である院長としては、良い医者とは患者さんのためによく働き収益の多い医者と考えられます。そういう良い医は、統計的に考えると例外的な医者と言うことになります。実際は如何でしょうか。良い医者の割合が珍しい事象、つまり例外的ということは少し残念なことに思えます。今回は例外の頻度を考えてみました。次回に続く。

 新年の診療スタートです! 【スタッフ】 2017/01/06
 新年明けましておめでとうございます。
 昨年は様々な経験をさせていただき、少しずつですが成長を感じることができました。
 困難なことへ挑戦するとなると、駆け出しは出遅れ気味で進行も人より遅いのですが、あせらず自分のペースを保てる精神力の強さでドロップアウトやリタイアすることなく着実にたどり着いてきました。気づいたら周りの方が失速していて、追い抜いていることもあります。
 私は、ウサギとカメでいう、カメさんなんですよね。それだからこそ今の私があるのだと思います。
 今年もまた変わらないペースで前へと歩んでいきます。ほさか内科医院で、患者さまの健康に寄り添いつつ、私の挑戦は続きます。

 例外の話 第4回目 【院長】 2016/11/29
 今回は例外の話の第4回目です。
 前回は例外の反対の言葉を考えてみました。今回は例外と通例の間を考えてみましょう。はたして、例外と通例の間に存在する例はあるのでしょうか。例えば、小数例について考えてみます。つまり少しは存在する例ということです。それを単に数が少数な例と考えてもよいのですが、例外と通例の間に存在するどちらにも属さない中間的または移行過程の例と考えてみます。従ってどちらの特徴も少しずつ持っている例と考えられます。例外の特徴は通例ではなく、一般原則の適応を受けないこと、一方通例の特徴は一般原則が適応できること、になります。この両者を有するとなると、どうやら少数例とは矛盾の塊になってしまいます。だから、小数例はそれ自身固有の特徴を持っていると考えた方がよいかもしれません。そうなると少数例はかなり例外に近寄った例と考えられます。ほとんど同じと考えておきましょう。少数例を説明するのは意外に難しいかもしれません。今後もっと深く考える必要があるようです。(次回に続く)

 例外の話 第3回目 【院長】 2016/11/10
 今回は例外の話の3回目です。
 例外の反対の言葉として、例内という言葉は存在するのでしょうか。いろいろな辞書を調べてみても存在しないようです。通例にあてはまらないこと、一般原則の適用を受けないことが例外であるのに、通例があてはまり、一般原則が適応できるという意味の言葉が存在しないのは不思議ですね。おそらくそれに該当する言葉は通例でしょう。通例とは容易に直ぐ頭から引き出せ、身近に在る例、と考えられます。しかも、通例は一般原則が適応できることに加えて通例どうしに共通する部分がある、と考えられます。共通する部分とは考え方、容姿、周囲の環境、過去の歴史などに存在するもので、これが存在するために通例同士お互いが安心したり安定したり出来るのでしょう。集団の中で安心し安定して存在するためにはこの部分は欠かせません。これとは反対に例外は集団の中では違いが目立ち、浮いた不安定な存在となります。安定を求めるには例外的な要素は出来るだけ少ない方がいいかもしれません。例外として存在するためには強い精神力が必要でしょう。(次回に続く)

 例外について 【院長】 2016/10/06
 今回は例外の2です。
 これまでの人生を振り返って、自分について考えてみますと、やはり自分は通例に当てはまり難い人間である気がします。しかし、私の全部が全部例外であった訳ではありません。他人と全くかけ離れた人間とは考えにくいので、例外的な面を持っている人間、と言った方が正確でしょうか。それは発想であったり行動であったりでした。例えば、発想が違うな、と思った時は小学校5年生の国語の授業の時でした。先生が段落のまとめを生徒に質問した時に、多くの生徒は短い文章でまとめていたのですが、自分はたった一言の単語で済ましていました。これが先生や他の生徒から見るととても奇妙な発想だったようです。つまりたった一言の単語で段落をまとめることは無理ではないか、と思ったようです。自分としてはこれが自然な発想だったのですが。この時、子供ながら他人と発想が違う、と感じました。また、中学校を卒業する時に残す卒業生の言葉を書いた時のことでした。努力、雑草のようになど人生を励ます言葉や有名な人が残した言葉などが多かったことを記憶していますが、私が残した言葉は“人には色々な面があるので人に対する見方は一面的になってはいけない”といった少し独創的(?)なものでした。例外的な発想の私でしたのでこのような言葉が浮かんだのでしょう。今後も例外を大切にして人生を謳歌したいと思っています。(次回に続く)

 余談 【院長】 2016/10/06
 余談の続き
 当院のブログは院長の私とスタッフの意見で構成されています。私のテーマは統計学の話、コレステロールや血糖値の話、そして余談です。余談は何を書いてもよいのでテーマとは言えませんがこれからは的を絞って“例外の話”にしたいと思っています。今回は例外の話の一回目とします。
 これから例外という言葉について考えて行きたいと思います。よく分かりませんが、例外という言葉はわたし(自分)にはとても親しみの持てる言葉です。子供の頃から、自分は他の人とは何となく違う、といった感覚を持っていました。自分の行動を他の人の行動と比較した時や自分の考え方を他の人の考え方と比較した時に湧いたぼんやりとした感覚です。
 goo国語辞書では、例外とは、通例にあてはまらないこと。一般原則の適用を受けないこと。決まりや法則が及ばないもの。「―として扱う」「―を設ける」「―的に参加を認める」という説明がありました。例の外で通常にあてはまらない、またはあらかじめの想定から外れたものとも言えます。一方、例外のない規則はない、という慣用句もあります。どんな規則にも例外がある、という意味ですから規則を作っても例外は必ず存在する、例外を無視できない、ということでしょう。英語では There is no rule without exception.高校生の時に習いましたね。例外を特例と比較すると例外の意味がより分かりやすくなります。例外は先ほど説明しましたので特例について説明します。特例とは特別な例、特別な決まりや法則のこと。あらかじめ想定して決めたものと説明されています。例外は想定外か、特例は想定内と言うことです。少し拡張して個人的な感想を述べれば、例外的な存在でも姑息にならないでいいとも考えられます。(次回に続く)

 糖尿病勉強会って何してるの?? 【スタッフ】 2016/10/04
 ・・・という声がどこからともなく聞こえてくるような、空耳ですかね。ホームページにも案内のページを設けてはいますが、それだけではいまいちイメージがわきにくいかもしれませんね。

 この糖尿病勉強会は昨年4月からスタートしまして、先日18回目を終えました。約1年と半年間継続していて、毎回4~8人くらいの方がお越しくださっています。毎回来られる方、時々来られる方、初めて来られる方とその都度顔ぶれは変わります。”糖尿病勉強会”という堅苦しそうな名前ですが、こちらからの一方的な説明だけとうわけではなく、患者さんからの質問が飛び交ったり、患者さん同士が交流を深める場でもあります。いわゆる患者会の一種です。いずれ名前は変えるべきだなとは思います。名前を募集したいくらいです。

 そして毎回テーマを設けていますが、先日10/2の場合は「基礎から考える食事の話」でした。この回ではアイスと血糖測定の機器を用意して、アイスを食べる前と食べた後30分後に血糖を測定してもらいました。甘いものを食べることで血糖の変動がどうなるのかを実際に知ることで、より関心が高まってもらえればと企画しました。

 普段の診察では長くお待たせしないことを意識していますので、一人あたりの診察時間はどうしても限られてしまいます。勉強会を設けることで、もっとお伝えしたいと思っていることをじっくりとお話することができますし、患者さんからのご意見をゆっくりお伺いすることもできています。何より、保坂先生ご自身が楽しんで企画されていますので、その雰囲気のおかげか和気あいあいとしている会だなと私は感じています。

 今後も引き続き、様々なテーマで行っていきますが、一度行ったテーマも繰り返し実施していく予定です。毎月1回、第一日曜日午後3時~4時に行っていますので、ご興味のある方は都合の付く回だけでもかまいませんので足をお運びいただけると幸いです。

 ブログに書くこと考え中 【スタッフ】 2016/09/14
 セミの鳴き声がすっかり聞こえなくなり、肌に触れる空気も涼しく感じるようになってきました。

 そんな季節の変わり目に差し掛かっていることもあり、体調を崩される方が増えているようです。喉の痛みや咳など呼吸器系に影響が出ている方が多く見られます。体調管理をおろそかには出来ない時期だと思います。

 私も手洗いうがいを毎日欠かさず行って元気な姿で患者さんに向き合えるよう努めています。幸い開業以来一度も体調不良でお休みしたことはありません。そういえば高校生のときくらいから無欠席だったように思います。風邪らしい風邪を引いたのはいつだったかな…

 このブログに何を書いていこうか考えているのですが、ポツポツとアイディアは浮かびつつもまだ文章としてまとまりきってはいません。薬剤師らしく薬の話を書くのもよし、糖尿病勉強会の報告を書くのもよし、その他医院に関する事ならなんでもよし。なのでもう少しじっくり練りこみます。お楽しみに!

 統計学、その後 【院長 2016/08/30
 前回のブログには昨年の江戸川区医師会誌に統計学を始めた記事を書きましたが、今回はその後の経過をお話したいと思います。統計学を始めたのは、集団を対象として統計学的に得られた知見を個人に還元するのはどうすればよいか、を知りたいのが理由でした。そのため平成27年4月千葉大学理学部に統計学の科目履修生として入学しました。一年間勉強してから、科目担当の汪金芳教授に私の考えをお話しました。幸いにも汪先生は私の考えを理解され、さらに、それを研究レベルに引き上げてくださいました。とても嬉しかったですね。それが今年の3月です。その後、何度も汪先生とお会いして討論を重ねました。私にとっては大変難しい数学的な思考、数式を汪先生はすらすらと示されました。正直なところ理解してついて行くのがとても大変でしたが、何とか分かったふりをして討論に参加させて頂きました。6月には、汪先生はこれまでの研究成果を今年の8月にスペインで開催された国際計算機統計学会に発表される予定を立てられました。そして、先日発表されました。もちろん英語です。私は共同研究者として頂きました。とても光栄です。先生が帰国されたら、さらに研究を重ね論文として報告できるように努力したいと思っています。具体的な内容を論文としてお示し出来ればいいですね。まだまだ先ですが。

 ほさか内科医院の特徴 【スタッフ】 2016/08/03
 薬剤師兼、医療事務のスタッフです。

 梅雨が明けていよいよ夏本番となってきましたね!そんな8月から、江戸川区にお住いの65歳以上の方の国保健診と75歳以上の方の長寿健診が始まりました。対象の方には江戸川区から受診票が届いているかと思います。10月までの3か月間、当院でも受け付けていますので積極的に利用していただきたいです。

 この健診を実施していることや地域性から、当院に来られる患者さんはご高齢の方が多いように感じます。最寄駅は都営新宿線船堀駅ですがそこから徒歩約20分と少々離れた場所にあります。バスを使えばJRの駅からも来ることができますが、そこまで交通の便が良い立地とはいえません。そのため来院される患者さんは近辺に住まわれている方が大半となっています。商店街や小学校も近くにはあるのですが、やはり周辺地域の特性としてはご高齢の方が多く潜在されているようです。

 そういったご高齢の方の中には、距離の遠さや混雑等で病院への通院が困難になっていることが多いようです。そこで当院が徒歩で通院できる圏内であったり、往診にも対応していることもあり、違った意味での利便性があるといえます。

 ご高齢の方の場合、糖尿病を患っていることも多く、今後ますます増えてくることが予想されています。それに反してこの近辺には当院のような糖尿病を専門としたクリニックは少ないのが現状です。そのため、専門としていない内科のクリニックが糖尿病を治療しているケースも多く見受けられ、本来は片手間で治療できる領域ではないのになと危機感を覚えることもあります。このような手薄になっている領域をカバーできることが当院の強みだと思います。

 糖尿病で来られるのはご高齢の方だけでなく、若い方や中高年の方など世代を問わず様々です。病院ほど堅苦しくなく専門治療を受けられるので、気兼ねなく前向きに通院されている方が多い印象です。最近では、病院の方からの逆紹介で来られる方も増えてきており、必要とされる領域であると実感しています。

 また、消化器系に関しても専門として標榜しています。消化器内科(類似名称;胃腸科)を標榜しているクリニックは珍しくありませんが、専門資格の有無に関係なく標榜できるので内科に毛を生やしているだけのクリニックもあるかもしれません。当院の場合は、専門の資格を持った医師ですので、三本柱の一つとして掲げています。

 したがって必然的に内視鏡検査等の希望も多く、その場合は江戸川区医師会医療検査センターへ依頼しています。内視鏡の機材は目まぐるしく進歩しており院内に設備を設けることが難しいため、検査センターへ依頼する形をとっています。検査結果は当院に戻ってきますので、それを基に専門的知見から判断しています。内視鏡検査は「苦しい」「辛い」というイメージを持たれている方もいるようですが、実際に検査を受けてこられた方の感想をおうかがいすると、「楽だった」「あっという間だった」といった声をお聞きしています。ですので検査センターへは安心して依頼できています。内視鏡検査まではいかなくても、エコー(超音波)検査やCT検査(検査センターへ依頼)で判断する場合もあります。

 以上のように専門を二つ掲げてはいますが、当院の名前は『ほさか”内科”医院』となっています。これは、地域に根付くためにはやはり内科全般を診療できることが基盤として重要だからです。ご高齢の方ですと、いくつかの病気を合併されている場合が多く、一つだけでなく全体を診ていくことが必要です。誰にでも起こりうる風邪の症状はもちろんのこと、高血圧や脂質異常症などの生活習慣病で定期的に通院されている方もいます。

 ホームページをご覧いただければ分かりますとおり、脂質異常症(コレステロール)に関しては力をいれていますので、最近関心が高まってきていることもあり、わざわざ遠くから足を運んでくださる方もいらっしゃいます。こんな小さなクリニックでも注目される部分があるのだと気が引き締まる思いです。

 余談ですが、診察を終えて会計しているときに、「先生がよく話を聞いてくださって、早く来ればよかった」とか「薬は最小限にしてくれるので、たくさん飲まなくていいのは助かる」といったことおっしゃて下さる方もます。その言葉を聞くと私も一緒にうれしくなります。

 そんな患者さんのために、患者さんの声に耳を傾け、患者さんの身近にある医院としてこれからも最善を尽くしていきたいと思っています。

 スタッフ初投稿です 【スタッフ】 2016/07/21
 ほさか内科医院のスタッフとして初めて書かせていただきます。

今のところスタッフは私一人なのですが、私は薬剤師であり医療事務の資格も持っていますので兼任しています。

 当院は糖尿病の専門医院ですのでインスリン等の注射薬に関しては院内で処方しています。注射薬の管理には細心の注意が必要ですので、薬剤師として管理から投薬まで行っています。また、それにともなった血糖自己測定の機器類の管理も行っています。その他にも検査薬や点滴などもありますので院内の医薬品については安全に取り扱えるよう努めています。

 このように外来のみのクリニックで、看護師ではなく薬剤師がいるという体制は珍しいかもしれません。院長の考えとしては、診療行為は自らがすべてを担えるけれども、医薬品や医療事務に関しては範ちゅうをこえるのでそこをしっかりと補ってもらいたいという方針のようです。

 私が薬剤師なら携わることの多いであろう薬局ではなくこの医院を選んだのには、院長の方針に合っていたことに加えて、ここだからこそ目指せる目標があったからです。 

 それは、「糖尿病療養指導士」という資格の取得です。これを受験するためにはいくつかの条件があり、簡単に説明しますと、まず薬剤師などの決められた医療資格をもっていること、そして2年以上継続して勤務しその間に規定の時間以上を糖尿病患者さんと直に接して治療に携わっていること、専門医のいるところであること、といったものです。

 当院は開業から3年目を迎え、すべての条件がそろいました。来年の3月には受験する予定ですので、現在はそれに向けて勉強に励んでいます。

 この試験に合格し資格を取得できれば、糖尿病に関してはスペシャリストの薬剤師になるということです。そうなったら、医院としてもより格が上がった医療が提供できるようになるのではないかと意欲に燃えています。

 余談です。 【院長】 2016/07/18
 今回は余談です。
昨年(2015年)の江戸川区医師会会報321号(2015年11月発行)に投稿した随筆をそのまま掲載します。この随筆を投稿した後、今年(2016年)の3月から千葉大学理学部数学科の汪教授との共同研究がスタートしました。まだ具体的な成果は出ていませんが、成果が見られましたら掲載します。随筆は以下です。

 小さな決意
保坂成俊(ほさかしげとし)第3支部

 私は今年の3月に小さな決意をしました。その決意とは〝ある目標を達成しよう“ということです。その目標を15年くらい持ち続けています。しかし、いつになっても達成できそうもなく、その気持ちに区切りをつけるために決意しました。気持ちを持続させるため、大学の科目履修生になって基本的な勉強から始めようと考えました。休診日の午後、大学へ赴き二十歳位の学生と授業に臨んでいます。なぜか歳の差は感じません。ご存知の通り、科目履修とは学びたい科目のみ履修出来る制度で、一度大学を卒業していれば入学の基準は厳しくはありません。選んだ科目は統計学です。いま流行りの統計学ですが、興味は約46年前の学生の時に受けた数理統計学まで遡ります。現在の私の年齢は66歳です。

 私は医師になる前に農学部を卒業しました。農学部では数理統計学は必修でした。現場で役に立つ学問と考えられていたからだと思います。しかし、就職先は大学の基礎医学研究室でしたので、統計学は研究データの解析に利用したくらいでした。約10年の研究生活の後、医学部に再入学しました。卒業後は臨床医になったのですが、統計学はむしろ臨床医になってからの方が必要でした。臨床研究データの解析は基礎医学の研究データ解析よりも複雑で難しいものです。また、臨床研究論文を理解するだけでなく、論文の作成のためには、しっかりした基本的な統計学の知識が求められます。浅い知識は通用しなかったのです。臨床研究で得られた成果を患者さんに適応する段階、つまり治療となりますと、ある問題が浮かび上がってきました。例えば血圧、コレステロール値、血糖値などが基準値より高ければ投薬を考えます。その場合、基準値より高い患者さん全員に投与する、と言った単純なものではありません。その患者さんの個別的特徴を考えて投与することになります。そこに、投与される患者側の個別的特徴に由来する基準が発生します。基準は医師の経験で設定されることが多いと思いますが、それをより客観的に解析したいと思いました。そのためには、さらに深い知識が要求される気がします。まだ具体的な統計学的解析手段は決まっていません。これからの課題です。

 西千葉駅に隣接する大学キャンパスは若さに溢れています。肉体的な若さは多少衰えても、知的若さは衰えることがありません。無限の可能性を信じて、〝投与される患者側の個別の基準を客観的に解析する“ことを、小さく決意しました。息長くギブアップすることなく地道に努力したいと考えています。

以上です。

 コレステロールの話 【院長】 2016/07/07
 コレステロールと病気の発生頻度について調べた疫学調査では、コレステロールは220mg/dl以上では心筋梗塞の発症が増加しはじめ、200mg/dl以下ですとがんなどが増加するようです。ただし、これらの結果は統計的に検証されたものではなく、あくまで傾向が有るといった弱いものです。しかし、コレステロールの治療にあたる際、特にコレステロールを低下させる時にはこのことを考慮しながら200mg/dl以上にコントロールすることが大切と思われます。薬の副作用につきましては、内服し始めて1か月以内に発生します横紋筋融解症などがありますが、頻度はまれです。私の経験では、軽度の筋肉痛が出現することは経験しましたが、その時点で中止し重大なことに至った症例はありませんでした。長期に亘って内服している方に横紋筋融解症が出現した経験はございません。

 これまで、コレステロール低下の薬を処方する時は、200mg/dl以下にしないようにしておりましたので、この点は確認できたと思います。現実的には多少200mg/dl以下になっても180mg/dl以上であれば、がんの発生頻度は低いようです。また、コレステロールの役割について語る時、その種類について言及しなければ片手落ちです。LDL, HDL, 超悪玉などを調べそれらの数値と超悪玉の有無の検討が必要です。この点は当院のホームページのコレステロールの話を参照下さい。

 ブログ(blog)始めました。 【院長】 2016/07/07
 ブログ始めました。日頃考えている事を掲載します。

 最近では、週刊誌で取り上げられた薬の記事に関心が有ります。少し違和感が有りますが、納得できる面もあり無視できません。後日、感想を掲載します。

 また、テーマを設定して連続で考えてみたいとも思っています。院長より